* 佐々木稔 説教全集 *   

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   ローマ書講解説教 - 佐々木稔

Shalom Mission 

  01-1.ローマ 1:1-7. 最高のよき知らせ

  01-2.ローマ 1:8-17. どのように.救われる

  01-3.ローマ 1:18-32. 旧約史..異邦人の罪

  02-1.ローマ 2:1-16. 公平な神

  02-2.ローマ 2:17-29. 救いを必要..罪人教

  03-1.ローマ 3:1-8. ユダヤ人.. 反論教

  03-2.ローマ 3:9-20. 人は皆罪の下にある 

  03-3.ローマ 3:21-31. 信仰の義による救い

  04-1.ローマ 4:1-12. 旧約時代の信仰義認

  05-1.ローマ 5:1-11. 信仰義認の豊かな実

  05-2.ローマ 5:12-21. 恵みの勝利

  06-1.ローマ 6:1-14. 罪に死に,神に生きる

  06-2.ローマ 6;5-23. 罪の奴隷と義の奴隷

  07-1.ローマ 7:1-6. 律法からの解放

  07-2.ローマ 7:7-13. 律法...善いもの

  07-3.ローマ 7:13-25. 古い罪.. との戦い

  08-1.ローマ 8:1-11. 聖霊による歩み

  08-2.ローマ 8:12-17. 神の子とされる恵み

  08-3.ローマ 8:18-25. 栄光を受ける約束

  08-4.ローマ 8:26-30. 万事が共に働く人生

  08-5.ローマ 8:31-39. 信仰の勝利

  09-1.ローマ 9:1-18. 神の救いの御計画

  09-2.ローマ 9:19-29. 救い..憐れみによる

  09-3.ローマ 9:30-10:4. 講解説教

  10-1.ローマ 10:5-13. 近くにある救い

  10-2.ローマ 10:14-21. 福音.従順に信ずる

  11-1.ローマ11:1-10. イスラエルの救い

  11-2.ローマ 11:11-24. イスラエルの回復 

  11-3.ローマ 11:25-36. 神の救.御計画

  12-1.ローマ 12:1-8. 信徒の生活

  12-2.ローマ 12:9-21. 愛の実践 

  13-1.ローマ 13:1-7. 信者と国家の関係

  13-2.ローマ 13:8-14. 光の武具を身に...

  14-1.ローマ 14:1-12. 裁いてはならない

  14-2.ローマ 14:13-23. 罪に誘っては..

  15-1.ローマ 15:1-13. お互いに受け入合う

  15-2.ローマ 15:14-21. 異邦人の祭司パウロ

  15-3.ローマ 15:22-33. パウロの伝道

  16-1.ローマ 16:1-16. ローマ教会を支えた..

  16-2.ローマ 16:17-27. 秘められた計画


「ユダヤ人も、救いを必要とする罪人」

ローマの信徒への手紙2:17-29

 2:17 ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、2:18 その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。2:19 -20また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。2:21 それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。2:22 「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。2:23 あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。2:24 「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」と書いてあるとおりです。2:25 あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。2:26 だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。2:27 そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。2:28 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。2:29 内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。

はじめに


 お話をさせていただきます。では、これから、どこの個所をお話しするかと言いますと、ローマの信徒への手紙の2章の後半です。これまでに、ローマの信徒への手紙を4回、お話をさせていただきましたが、今日は、その続きで、5回目で、2章後半のお話となります。


  それで、これまでのことを、二言、三言、お話してから、今日の個所に入りたいと思います。まず、ローマの信徒への手紙とは、どのような手紙でしょう。すると、1世紀のキリスト教伝道者の使徒パウロが、紀元56年頃書いた手紙です。当時、パウロは、ギリシアのコリントにいたと思われますが、そのパウロは、まだ、伝道がなされていなかった現在のスペインにあたるイスパニア伝道を、積極的に考えていました。そのため、中継地点となるローマの教会を訪問して、主にあるまじわりを持ち、イスパニア伝道を、まじわりと祈りで支援してもらうことを強く願っていました。そこで、パウロは、自分がどのような者であるか、また、自分が伝えようとしている救いのよき知らせである福音は、どのようなものかを理解してもらうため、まずこの手紙を書きました。


 では、前回、2章前半から、わたしたちは、何を学んだのでしょう。すると、旧約歴史のあるユダヤ人も罪人であり、神に裁かれることが語られていましたが、今日の個所も、その続きで、人の真の生き方を教える神の律法を持っていて、神から選ばれた民とうぬぼれていたユダヤ人も、罪人であることが、パウロにより、明白に断言されています。それゆえ、書かれた律法を持っていなかった異邦人も、書かれた律法を持っていたユダヤ人も、共に罪人なので、聞いて、十字架のキリストを信じるだけで、罪赦されて救われるよき知らせである福音を、真に必要としていたのです。救いのよき知らせである恵みの福音を必要としない人はいないのです。もちろん、今日のわたしたちにも必要です。


そこで、今日は、2章の後半から、3点をお話をしたいと思います。第1点は、1世紀のユダヤ人は、人の真の生き方を教える神の律法を持っていたので、自分たちは、罪人ではないと豪語していたという点です。第2点は、確かに、1世紀のユダヤ人は、人の真の生き方を教える神の律法を持っていました。しかし、実際には、その律法を守っていなかったので、間違いなく、罪人であるという点です。第3点は、ユダヤ人は、さらに、自分たちは、神の民のしるしである割礼を受けているから罪人ではないと豪語していましたが、それは、外見だけのことで、実がなかったという点です。ローマの信徒への手紙は難しいと言われますが、できるだけ、簡潔にお話ができればと願っています。


1.1世紀のユダヤ人は、律法があるから、罪人でないと豪語していた


早速、第1点に入りましょう。第1点は、1世紀のユダヤ人は、人の真の生き方を教える神の律法を持ち、神の律法を知っていたので、自分たちは、罪人ではないと豪語していたという点です。神の律法は、モーセの十戒を中心として、旧約聖書に書かれていますが、神に創造された人間の生き方の基準の意味を持ちます。


そこで、このローマの信徒の手紙が書かれた1世紀のユダヤ人は、自分たちは、人の真の生き方を教える神の律法を持ち、また、知っていたので、自分たちは、異邦人と違って、罪人ではないと豪語していました。


1世紀のユダヤ人が、自分たちは、異邦人と違って、罪人ではないと豪語していたことが、5つの動詞的な言い方と4つの名詞的な言い方で、合わせて、何と9つのも、実に、多くの言い方で記されています。


17節に、5つの動詞を使った言い方が出ています。「あなたはユダヤ人と名乗り」の「名乗る」、「律法に頼り」の「頼る」、「神を誇り」の「誇る」、「その御心を知り」の「知る」、「律法によって教えられて」の「教えられている」、「何をなすべきかをわきまえている」の「わきまえている」というのが、5つの動詞を使った言い方となっています。


すなわち、1世紀のユダヤ人は、自分たちは神から選ばれた民である「ユダヤ人」であると自ら名乗り、自分たちは、人の真の生き方を教える神の律法に頼り、依存して、真の神を知っていると誇り、律法によって、神の御心を教えられていると吹聴し、神に創造された人間が何をなすべきかを、十分わきまえていると豪語していたことを、これらで表しています。1世紀のユダヤ人が、胸を張り、わたしたちユダヤ人は、異邦人のような罪人ではないと、得意満面で、誇っている姿が目に浮かぶようです。


ところが、そのように、1世紀のユダヤ人は、5つの動詞を使った言い方で豪語していたのですが、それでも、まだ足らなくて、さらに、4つの名詞を使った言い方までしていました。すなわち、自分たち、ユダヤ人は、自分たちが持っている律法の中に、人の真の生き方についての知識と真理が具体的に示されていると考え、自分たちは、霊的に目の見えない異邦人を手引きできる者、また、霊的暗闇の中にいる異邦人を明るく照らせる光の役割ができる者、また、霊的に愚かで無知な異邦人を霊的に教えることができる者、また、霊的に幼稚で未熟な異邦人を教える教師に十分なれる者と自負していたのです。


20節の「盲人の案内者」、「闇の中にいる者の光」、「無知な者の導き手」、「未熟な者の教師」という4つの名詞的な言い方がそうです。「盲人の案内者」とは、霊的に目の見えない異邦人を盲人にたとえ、自分たちユダヤ人は、自分たちが持っている律法の中に、人の真の生き方についての知識と真理が具体的に示されていると言って、自分たちは、霊的に目の見えない異邦人を手引きできる者と、強く主張していたことを意味します。


「闇の中にいる者の光」とは、自分たちユダヤ人は、霊的暗闇の中にいる異邦人を明るく霊的に照らせる光の役割ができる者と強く主張していたことを意味します。「無知な者の導き手」とは、自分たちユダヤ人は、霊的に愚かで鈍い霊的無知な異邦人を霊的導くことができる者と強く主張していたことを意味します。また、「未熟な者の教師」とは、自分たちユダヤ人は、霊的に幼稚で未熟な異邦人を教える教師に、十分なれる者と強く自負していたことを意味します。


「盲人」、「闇の中にいる者」、「無知な者」、「未熟な者」という言葉は、すべて、律法を持たない異邦人を表しています。異邦人は、霊的なことが見えないので、「盲人」と言われます。異邦人は、霊的暗闇の中に生きているので、「闇の中にいる者」と言われます。異邦人は霊的真理を知らないので「無知な者」、すなわち、霊的に愚か者と言われます。「無知な者」とは、原語では、強い軽蔑の言葉で、霊的真理を知らない「愚か者」という意味です。


また、異邦人の中には、霊的な真理を知っている者がいても、初歩的なこと、幼稚なことしか知らないので「未熟な者」と言われます。「未熟な者」とは、原語は、「幼児」という意味で、異邦人の中には、霊的真理を知っている者がいても、ユダヤ人に比べれば、まるで幼児のようだと言う意味で、霊的に初歩的なことしか知らないという、これまた軽蔑の言葉です。1世紀のユダヤ人が、上から目線で、如何に、異邦人を見下し、軽蔑していたかがわかります。


こうして、1世紀のユダヤ人は、5つの動詞を使った言い方と4つの名詞を使った言い方で、合わせて、9つもの、実に多くの言い方で、自分たちは罪人ではないと豪語していました。彼らは、異邦人をさんざん軽蔑し、自分たちユダヤ人は、人の真の生き方についての知識と真理が具体的に示されている神の律法を持ち、また、神の律法を知っているから罪人ではないと、自信満々で、異邦人を見下し、得意満面で誇っていたことが、読者のわたしたちに伝わってくる書き方になっています。


2.1世紀のユダヤ人は、実際には、神の律法に従って生きていなかった


 そこで、第2点に入りましょう。第2点は、確かに、1世紀のユダヤ人は、人の真の生き方を教える神の律法を持っていました。しかし、実際には、日常生活において、その律法を守っていなかったので、間違いなく、罪人であったという点です。

 

 すなわち、確かに、1世紀のユダヤ人は、旧約聖書に書かれたモーセの十戒をはじめとして、あなたは、何々しなさいという命令の形、あるいは、あなたは何々してはならないという禁止の形で書かれていた、人の真の生き方についての知識と真理が具体的に語られている神から与えられた素晴らしい律法を持ち、また、律法を知っていました。では、彼らは、律法を、実際に守って生きていたのでしょうか。


すると違うのです。彼らは、「他人」、すなわち、異邦人には、律法にこう書いいてあるから守るようにと教えていました。では、自分たちは、律法に書かれていること、律法が要求していることを、忠実に守っていたでしょうか。すると、違うのです。


らは、盗んだり、姦淫、すなわち、不倫をしたり、宗教的に汚れた偶像を祭る異教の神殿に近づき、入り込んで、金目のもの、価値あるものをかすめ、奪い、持ち出して、売り捌くという異教の神殿荒らしを平気でしていました。そして、ユダヤ人が、これらの悪事をしていることは、当時の異邦人もよく知っていました。また、パウも知っていました。だからこそ、パウロは書くことができたのです。


こうして、ユダヤ人は、自分たちには、人の真の生き方の基準である神の律法があるとさんざ誇りながらも、実際には、律法を破って数々の悪事をしていました。そこで、ユダヤ人が信じている神は、ユダヤ人が悪事をすることを許す神なのかと言って、神の聖なる御名は、異邦人の間で、悪く言われ、汚されていたのです。これが、1世紀のユダヤ人の現実でした。


21節から24節がそうです。「『盗むな』と説きながら、盗むのですか」とありますが、「盗むな」というのは、モーセの十戒の第8戒の「盗んではならない」という戒め、律法のことです。しかし、1世紀のユダヤ人の中には、それにもかかわらず、人のものを盗む人々がいたことを意味しています。ユダヤ人による窃盗事件が、しばしば、1世紀の地中海世界で生じていたことを意味します。


「『姦淫するな』と言いながら、姦淫を行うのですか」とありますが、「姦淫するな」というのは、モーセの十戒の第7戒の「姦淫してはならない」という戒め、律法のことです。しかし、ユダヤ人の中には、それにもかかわらず、姦淫する、すなわち、自分に妻がいるのに、他の女性と不倫をする人々がいたことを意味しています。ユダヤ人による不倫事件が、しばしば、1世紀の地中海世界で生じていたことを意味します。


また、「『偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか』とありますが、「神殿を荒らす」という言葉は、原文では、「神殿を奪う」という強い言い方です。でも、神殿を奪うというのは、もちろん、偶像を祭る異教の神殿の建物そのものをそっくり自分のものにするというのではなく、偶像を祭る異教の神殿に近づき、入り込んで、金目のもの、価値あるものを、かすめ、奪い、持ち出して、売り捌くという異教の神殿荒らしの悪事を平気でしていたことを表します。


すなわち、1世紀の地中海世界各地には、偶像を祭る異教の神殿がどこにでもあり、また、立派で豪華な大神殿も、各地にたくさんあり、それらの異教の神殿には、価値のある物、高価な美術品的な物、宝物的なものがたくさんあったでしょう。そこで、ユダヤ人のある人々は、それに目をつけ、異教の神殿に近づき、侵入し、それらを平気で持ち出して、奪い、奪った物を売り捌くようなことをしていたのでしょう。1世紀の地中海世界におけるユダヤ人による異教の神殿荒らしは、当時の人々に広く知られていたと思われます。


ユダヤ人は、伝統的に、偶像を祭る異教の神殿に近づくと、宗教的に、自分の身が汚れると考えて、決して近づきませんでした。ところが、1世紀のユダヤ人の中には、大胆不敵なユダヤ人がいて、偶像を祭る異教の神殿に、平気で近づき、侵入し、入り込み、価値のある物、高価な美術品的な物、宝物的なものを奪い、かすめ取り、そして、売り捌いて、お金にしていた人々がいたのです。


こうして、1世紀のユダヤ人たちの数々の悪事は、当時の地中海世界の異邦人にもよく知られていたので、異邦人は、ユダヤ人が信じている神は、ユダヤ人の悪事を許す神なのかと言って、神の名が汚され、嘲けられていました。そこで、その状況は、約700年前の預言者イザヤの時代の状況に似ていましたので、パウロは、「『あなたたちのせいで、神の名は汚されている』と書いてあるとおりです」と旧約聖書のイザヤ書52章5節を引用しました。


ですから、旧約聖書を持ち、そこに書かれたモーセの十戒をはじめとする神の律法を持っていたユダヤ人も罪人であることが、これで、はっきりしました。では、ユダヤ人は、自分たちも罪人であること素直に認めたでしょうか。


 いいえ、認めませんでした。彼らは、さらに、自分たちが、罪人ではない証拠として、律法を持っていることと共に、今度は、自分たちは、神の民のしるしである割礼を身に受けているから、異邦人と違って、罪人ではないと、一層強く主張したのです。人というのは、自分が罪人であることを、素直には認めないものなのです。今日の日本でも、そうです。でも、わたしたちは、決して、あきらめないで、熱心に、みんなで、伝道していきたいと思います。


3.ユダヤ人は、割礼を受けているから罪人でないと豪語していました


 そこで、第3点に入りましょう。第3点は、ユダヤ人は、自分たちは、神の民のしるしである割礼を受けているから罪人ではないと豪語していましたが、それも、外見だけで、神の民のしるしである割礼にふさわしい実がなかったという点です。25節から29節がそうです。


25節から29節に、「割礼」という言葉が、10回も出てきて目立っていますが、「割礼」というのは、神の民のしるしでした。旧約聖書の創世記17章に記されていますように、イスラエルの先祖アブラハムの時代から始まりました。神は、世界の多くの民の中からアブラハムの子孫であるイスラエルの民だけを御自分の民とするという契約を、恵みによって、結んでくださり、そのしるしとして、男の子が生まれると、8日目に、刃物で生殖器に傷をつけて、しるしとするように命じました。こうして、「割礼」は、神の民のしるしとなりました。


  そして、そのアブラハムの時代から約2千年の長きにわたって、イスラエルの民、ユダヤ人は、「割礼」の儀式を受けてきました。そこで、1世紀のパウロの時代のユダヤ人は、自分たちも、「割礼」を受けているから、神の民であり、神に裁かれることはないし、もちろん、罪人ではないと強く主張していました

 確かに、「割礼」は、神の民のしるしですが、では、1世紀のユダヤ人は、本当に、神の民と言えたのでしょうか。地中海世界各地で、人の物を盗んで、窃盗事件をしばしば起こしていたユダヤ人、また、自分の妻がいるのに、不倫をして、世間を賑わせていたユダヤ人、偶像を祭った異教の神殿荒らしを平気でしていて、神殿荒らしのユダヤ人として知られていたユダヤ人は、数々の悪事を働き、人の生き方の基準である神の律法を守らず、破っていて、異邦人からさんざん嘲られていても、神の民と言えるのでしょうか。「割礼」というしるしがあるから、それでも、神の民であり、神に裁かれることはないし、異邦人と違って、罪人ではないと言えるのでしょうか。


 もちろん、とても、本来の意味で、神の民などとは、到底、言えませんし、罪人ではないなどとはとても言えません。いくら、「割礼」というしるしを受けていると言っても、神の民として結ぶ実がなく、カラッポなのです。カラッポどころか、マイナスなのです。


 それゆえ、「割礼」というしるしがあるということは、人の生き方の素晴らしい基準である神の律法に喜んで従い、神の民としての豊かな実を、実際に、結んで歩んでいる限り、本来の意味があるのです。そこで、パウロも、25節で、「あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです」と断言しましたが、「守ればこそ」の「こそ」という言葉は、もともと、「実際に」という意味です。ですから、「あなたが受けた割礼も、律法を、実際に、守れば、意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです」となります。


本当にそうです。1世紀のユダヤ人は、窃盗事件をしばしば起こし、不倫騒ぎで世間を賑わせ、異教の神殿荒らしが広く知られていたので、とても神の民などと言えませんし、神の民が結ぶ豊かな実が、「実際に」ないのですから、「割礼」を受けていないのと同じでした。


では、大切なことは何でしょう。それは、しるしとしての「割礼」を受けたユダヤ人であることが大切なことではなく、たとえ、逆に、異邦人であっても、自分が、罪人であることを素直に認めて、十字架のキリストを信じて、救われ、罪赦され、聖霊の力を与えられ、律法の要求を、聖霊の力によって、「実際に」、喜んで実行し始めている、その人こそが、「割礼」を受けた者と言えるはずですし、また、「割礼」を受けた者と見なされるはずです。


ですから、律法の要求を、聖霊の力によって、「実際に」、喜んで実行し始めている異邦人は、「割礼」のしるしを受けていなくても、律法を破る数々の悪事をしていることが知られていた「割礼」のあるユダヤ人を、「裁く」、すなわち、罪に定め、滅びを宣告する立場に立つことになります。


  27節に「・・・あなたを裁くでしょう」とありますが、これは、少し前の2章1節で、「だから、すべて人を裁く者よ」の逆になります。2章1節では、1世紀のユダヤ人が、おごり高ぶって、自分たちが神に代わるかのようにして、異邦人を裁いていた、すなわち、異邦人を罪に定めて、滅びを宣告していたことを表しますが、今度は、この逆の現象が生じることを意味しています。


 すなわち、律法を破る数々の悪事をしている1世紀のユダヤ人が、聖霊の力によって、神の律法を喜んで守り始めている異邦人から、裁かれる、すなわち、罪に定められ、滅びを宣告される側に置かれることを意味します。逆転現象が生じるのです。


 では、どうして、ユダヤ人が、異邦人によって、罪に定められ、滅びを宣告され、裁かれる側に置かれるかと言えば、ユダヤ人は、旧約聖書において、「律法の文字」、すなち、文字ではっきり書かれたモーセの十戒をはじめとする神の律法を持っているにもかかわらず、さらに、その上、神の民のしるである「割礼」を身に受けているにもかかわらず、先ほどから繰り返し触れているように、窃盗事件をしばしば起こし、不倫で世間を騒がせ、異教の神殿荒らしで広く知られているように、実際には、律法を破っていたからです。


 こうして、ユダヤ人は、確かに、外見上は、見かけは、外側は、ユダヤ人であっても、しかし、人の生き方の素晴らしい基準である神の律法に喜んで従って生きていなかったので、真のユダヤ人とは言えないのです。また、「肉」、すなわち、体に傷をつけられ、施された外面的な割礼があっても、それは、かたちだけの割礼で、真の割礼とは、とても言えないものであったのです。


 では、真のユダヤ人、すなわち、真の神の民とは、どのような人々なのでしょう。また、真の割礼とは、どのような割礼なのでしょう。すると、真のユダヤ人とは、「内面」、すなわち、大事な心が、神の律法に喜んで従うクリスチャンこそ、真のユダヤ人、真の神の民と言えるのですし、真の「割礼」とは、「霊」、すなわち、神の霊、聖霊、御霊によって、心に豊かに施される霊的生まれ変わり、霊的再生、霊的新生を受けることであり、それが、真のユダヤ人、すなわち、真の神の民であるクリスチャンなのです。


ユダヤ人の律法の守り方は、文字で書かれた律法を、自分の生まれつきの肉の力で、表面的に、外面的に行おうとしますので、律法を守ることができません。生まれつきのままの肉の力、罪の力は、霊的に無力で、律法を守れないのです。しかし、真のユダヤ人、新しい神の民であるクリスチャンは、自分の内面、すなわち、一人一人の大事な心に働く聖霊の汲めども尽きない豊かな霊的力によって、神の律法を喜んで守り始める真の人生を生きているのです。


もちろん、クリスチャンとは言え、聖化の未完成、きよめの未完成のゆえに、神の律法をすべて完全に行えるのではありません。しかし、自分の心に日々働く聖霊の汲めども尽きない無尽蔵の豊かな霊的力によって、人の生き方の素晴らしい基準である神の律法を喜んで行い始めて、終末の完成を目指して、日々、真の人生を歩んでいくのです。このクリスチャンこそ、真の割礼である聖霊の割礼を心に受けた真のユダヤ人であり、真の神の民なのです。


 そして、この生き方こそ、人からでなく、人を創造した偉大な主なる神御自身からの誉れを受ける素晴らしい真の生き方なのです。29節後半に、「その誉れは人からでなく、神から来るのです」とあり、自分の心に豊かに働く聖霊によって、人の生き方の基準である律法に従って、喜んで生き始めていくクリスチャンは、恵みにより、神御自身から誉れ、栄誉を受ける立場に置かれていることを、パウロは力強く語るのです。これは、大変な誉れです。


 実は、今日の個所に、「ユダヤ人」という言い方が、5回も出てきて、目立っています。「ユダヤ人」という言い方は、「イスラエル」という言い方と共に、神の民を表す、とてもよい意味を持っています。「イスラエル」という言い方は、神と戦って勝つ、あるいは、神と戦って勝った者というとてもよい意味の言い方です。旧約聖書に出てくる先祖のヤコブが、ヤボクの渡しで、人間の姿で現れた神と組み打ちをして戦って勝ったことを意味するとてもよい言い方です。


  すなわち、ヤコブは、兄エサウの復讐を恐れて、人間の姿で現れた神と組み打ちをして戦い、神が祝福と守りを約束してくださるまでは、神にしがみついて、決して離れませんでした。そこで、祝福と守りを求めるその熱心が、神から認められ、そのときから、ヤコブは、イスラエルと呼ばれるという出来事から来た言い方です。「イスラエル」の「イスラ」は、ヘブル語で、戦うという意味であり、「イスラエル」の「エル」は神という意味です。それで、両方、合わせて、神と戦って勝つ、あるいは、神と戦って勝った者いうとてもよい意味を持つ言い方です。今日の神の民であるわたしたちクリスチャンも、霊のイスラエルですから、神の祝福と守りを、熱心に求めて、真の人生を、日々、喜んで歩みたいと思います。


 では、神の民を表すもう一つの言い方の「ユダヤ人」とは、どういう意味でしょう。すると、「ユダヤ人」という言い方も、とてもよい意味を持っています。「ユダヤ人」は、へブル語で、イェフーディーと言いますが、その意味は、「賛美される人」とか「ほめたたえられる人」とか「誉れを受ける人」というとてもよい意味の言い方です。先祖のヤコブの12人の息子の一人のユダという名前から来た言い方です。


 こうして、「ユダヤ人」というのは、賛美される人、ほめたたえられる人、誉れを受ける人というとてもよい意味になります。でも、1世紀のユダヤ人は、律法学者やファリサイ派に例を見るように、完全には守ることができない律法を、まるで守れるかのようにして、人間的な誉れを、お互いに受けようとしていたので、それは、外見だけのユダヤ人で、本来の意味のユダヤ人、すなわち、神から誉れを受けるユダヤ人ではなかったのです。


 では、本来の意味のユダヤ人とは、どのような人のでしょう。すると、自分が罪人であることを率直に認め、十字架にかかったイエスさまを自分の救い主と信じて、罪とがをすべて赦され、救われて、「霊」によって、すなわち、聖霊の働きを「内面に」、心に、豊かに受けて、聖霊の汲めども尽きない無尽蔵の霊力によって、神の律法を喜んで守り始めていく人のことです。その人こそ、神御自身から誉れを受ける人、すなわち、本来の意味のユダヤ人なのです。


 そこで、パウロも、29節後半で、「その誉れは人からではなく、神から来るのです」と言いましたが、「誉れ」というのは、「誉れを受ける人」を意味するユダヤ人と、意味をひっかけて、パウロは語っているのです。そして、神御自身から誉れを受けるユダヤ人というのは、困難な1世紀を生き抜いたクリスチャンのことであり、また、今、いろいろなことがあっても21世紀を生き抜こうとしているクリチャンであるわたしたちのことなのです。


 わたしたちは、天地万物を無から創造された偉大な神御自身から、誉れを受けるということを聞くと、恐れ多くて、尻込みをしていまいますが、でも、わたしたちが、誉れを受けるのは、神の恵みによって受けるのです。自分が罪人であることを素直に認めて、十字架にかかったイエスさまを救い主と信じて、真の人生を喜んで歩んでいるわたしたちを、神は御心に適う者として、誉れを受ける者に、神御自身が、恵みより、わたしたちを変えてくださったのです。これらすべては、思いにまさる神の恵みによるのであり、心から感謝できます。


 結び


 こうして、今日のところを見ます。人は、律法のない異邦人も罪人、律法を持っていても、律法を、実際には、守れないユダヤ人も罪人です。それゆえに、わたしも、あなたも罪人であり、十字架にかかったイエスさまを信じて、ただ恵みにより救われるのです。そして、救われたときに、聖霊の働きを心に受け、汲めども尽きない豊かな霊的力によって、律法を喜んで守り始めることができるのです。それゆえ、わたしたちも、天地万物を無から創造された偉大な神御自身から誉れを受ける幸いな真の人生を、今週も、恵みにより、喜んで、歩んでいきたいと思います。


 お祈り


 恵み深い天の父なる神さま、
暑い日々が続いていますが、今日も、御前に、礼拝に導かれ、感謝いたします。

 今、ローマの信徒への手紙から学びましたように、わたしたちは、人生の基準である律法に背く罪人です。しかし、わたしたちが、救いのよき知らせである福音を聞いて、十字架にかかったイエスさまを自分の救い主と信仰したとき、あなたは、恵みより、すべての罪とがを赦してくださり、さらに、聖霊までも一人ひとりに与えてくださり、その聖霊の豊かな霊的力によって、律法を喜んで、守り始める真の人生を歩ませ、あなたから誉れを受ける者に変えてくださいましたことを、心から感謝いたします。誉れを受ける者に、少しでも、ふさわしく歩むことができますように、今週も、恵みにより、お導きください。

 また、今日、集まることができなかった方々に、それぞれのところで、顧みをお与えください。
また、東日本大震災、原発事故、熊本地震で、被災した方々に、必要なものを与えて、復興をお導きください。また、特に、被災した教会と信徒の方々には、礼拝を通して、励ましと支えが与えられますように、お祈りいたします。

これらの祈りを、主イエス・キリストの御名により、御前に、お献げいたします。アーメン。


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