聖霊のバプテスマ


 「バプテスマ」という言葉は「浸す、入れる、又は一致する」という意味があります。聖霊のバプテスマというのは、救われる時に、聖霊が私たちをキリストのからだに導いてくださることです。「キリストのからだ」とは「教会」と同義語で、すべての生まれ変わった信者の集りです。「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」(1コリント12:13)これがペンテコステの約束で、教会の始まりでした。

  聖霊のバプテスマとは、力や経験を受けることでなく、聖霊ご自身が、人をキリストに導きいれることです。使徒の働き1:5に「ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられるからである。」とあります。これはペンテコステのことを指しており、まもなく来るはずの教会の始まりのことです。ペンテコステ以前は聖霊が人に下りましたが、ペンテコステ以後の聖霊は、いつも人の内におられます。救われたすべての人の内に、在住しているのです。聖書の中で「聖霊のバプテスマ」という言葉が使われる時は、必ず単数ではなく複数として用いられています。「聖霊と火のバプテスマ」というのは、救いと裁きを表す対照的な描写です。(マタイ3:11-12;ルカ3:16-17)

  ある人は、「聖霊のバプテスマ」を受け、異言を語ることを主張します。また、ある人は病気を治したり、奇跡を行ったり、悪霊を追い出したりする力を得たと言いますが、そういう人たちは、にせ預言者やにせ教師です。2ペテロ2章を読んでください。その人達は、聖書に基づいて自分の経験を解釈するのではなく、聖書を自分の経験によって都合よく解釈してしまいます。悪魔は、神には関係のないいつわりの奇跡を行います。真理の御霊もありますが、人を惑わす霊もあるのです。1ヨハネ4:1-6) 

  現代のクリスチャンにとって聖霊の賜物を生かす最大の鍵は、「さらにまさる道」にあります。1コリント13:2には、「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰をもっていようとも、愛がなければ、無に等しい。」と書かれてあります。クリスチャンが与えられた賜物を用いる動機は、愛でなければなりません。私達はいつでも、どこでも、どんな働きや証をするにしても、主が呼ばれるとき、主イエス・キリストにすべてを委ねなければなりません。聖霊の働きや人格については、まだたくさん述べたいことがありますが、キリストにあって成長していくに従って、私たちの生活の中で聖霊の臨在や働きがよく分かるようになるでしょう。

 

[Reference] : shmission, 「資料室 - 聖霊について」 http://shmission.com/xe/?mid=sh_jp_board_6&document_srl=82266.