聖書解釈の諸原則

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 この記事は、「主の御名のもとに集う」(NORMAN CRAWFORD著、林道太他訳、牧草社発行)から、転載したものです。転載に御快諾いただいた同社に、心からの感謝を申し上げます。

 

 聖書全巻を最初に英語に翻訳した人であるマイルズ・カヴァディルは、「大聖書」の序論で次のように書いている。

「何が先であり、何が後に続くかを考えながら、何が書かれ何が話されたかだけではなく、誰のことであり誰についてであるか、どういう言葉で、いつ、どこで、どういう意図で、またどのような状況であったかについても注目することは、聖書を理解するのに大きな助けとなる」。

この言葉は、聖書を学ぶ人には有益な示唆であろう。

 聖書は、それ自体に、聖書を理解する手がかりが含まれている。私たちは聖書を聖書によって解釈しなければならないのであって、他のいかなる解釈の枠組にも依存すべきではない。これらの原則は自由に聖書原文に当てはめるものではなく、聖書を聖書によって解釈する方法そのものである。新約聖書によって旧約聖書を解釈する方法の中に、この原則の実例が多くある。


1.文脈の原則

 聖書を解釈する最初の原則は、文脈の原則である。聖書の中のどのような記述も、文脈から切り離して解釈してはならないと言ってよい。ただし、神はご自身の言葉について拡大解釈する権利を持っておられる。旧約聖書が新約聖書の中に使われるときに、このようなことがある。しかし、敬虔に神の御言葉を学ぶ者は誰でも、聖書の明確な裏付けがないかぎり、拡大解釈をすることはできない。なぜなら、「神は混乱の神ではない」(Ⅰコリント14:33)からである。神は、理解できる言葉を用いて秩序だてて、御言葉を与えられた。文脈の原則は、聖書に書かれているすべての内容を理解するための原則であり、何世紀もの間、神の啓示を慎重に研究した結果、神の御言葉のどの部分でも、この原則を堅く守ることがきわめて賢明であることが明らかになった。

 この原則によってこそ、新約聖書は旧約聖書を解釈できるのである。多くの例があるが、ここでは、ヘブル人への手紙2章6~9節は詩篇8篇4~6節を解釈しており、ヘブル人への手紙10章5~10節は詩篇40篇6~8節を説明している、という二つの例をあげておく。


2.適切さの原則

 第二の原則は、第一の原則と言ってもよいくらい重要だが、聖書はいつも適切であると言うことである。「ひとたび」(ユダ3)啓示された真理は、いつの時代にも適用される。

 すべての信者はバプテスマを受けて地域集会の一員となるのが正常な状態であると新約聖書は教えているが、キリスト教界で信者が分裂している今日、異なる基準を用いなければならないという主張がある。どういう基準を用いるのだろうか。神の御言葉以外に基準はないというのが、信者のただ一つの答えである。テモテに宛てたパウロの言葉は、この問題をすっかり解決してくれる。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働さのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです」(Ⅱテモテ3:16~17)。それゆえ、神の言葉はただ適切であるだけでなく、必要が生じたときにはいつでも、その必要を満たしている。

 聖書はいつも適切であるので、キリスト教界の現在の混乱に合わせて聖書を解釈することは正しくないことがわかる。私たちが置かれた状況に神の御言葉を合わせようとしてはならないのであって、いつも御言葉の戒めに従って行動するように努めるべきである。


3.明記された原型の原則

 集会の実際的なことがらという主題に直接適用できる三番日の原則は、聖書が語っていないことに基づいて論じてはいけない、ということである。新約聖書に原型、つまり完全な青写真がある。聖書に書かれていないことを主張すれば、聖書がすべての点で十分であることを否定することになる。非聖書的な行いを始めることを正当化しようとして、椅子、賛美歌集、製本した聖書、さらには集会所の建物についての聖句はない、と主張する人たちがいる。しかし、集会のすべての霊的な必要を満たす霊的な原型は確かにある。集会が「神の建物」(Ⅰコリント3:9)であるという事実は、神ご自身がその設計もなさるということを教えている。賛美歌集についての聖句はないが、歌うことについての明確な導きはある(Ⅰコリント14:15、他)。聖書をどのように製本すべきかについては何も述べられていないが、集会における聖書の役割ははっきりと教えられている。


4.記述の全体量の原則

 記述の全体量の原則は、既に述べた三つの原則と同じくらい重要である。ある主題が神とその民について重要である場合、聖書の多くの部分がそれに費やされている。集会の真理についての記述が多いことは、この真理が重要であることの証明である。この原則が正しいことは、聖書が重要な霊的事項については多くの部分をさいていることから明らかである。わずか二一節で世界の創造が描かれているが、荒野の幕屋とその聖なる奉仕については聖霊は三八章を用いている。なぜなら、幕屋はすべて主イエスの位格とその働きについて語っており、この方のうちに、父なる神は、御自分のあらゆる喜びを見いだされるからである。

 エマオの途上で、主イエスは「預言者」全体と「聖書全体」の重要性を示され、またそれらは「必ず全部成就する」ことを示された(ルカ24:27、44)。主イエスは、律法、預言者、そして詩篇のすべてをまとめ、ご自身について説明されたのである。


5.明確な意味の原則

 明確な意味の原則は、聖書の理解に不可欠である。簡潔で明確なことを解釈するのに、それがどんなことであれ、曖昧な文章を使うことはない。明確でしばしば反復されている御言葉によって、さらに難しい箇所を解釈するという原則を、いつも用いるべきである。

 たとえば、マタイの福音書1章23節は、イザヤ書7章14節の約束の明確な解釈である。
霊感によって、マタイは、その預言が単に若い娘が男の子を産むことを語っているだけでなく、処女が出産することを語っていると告げている。マタイの福音書2章6節は、ミカ書5章2節の預言を文字どおり正確に解釈している。それによって、ベツレヘム、ユダヤの丘にある二十家族の村落が、永遠の主の誕生の場所であることがわかる。


6.文法の原則

 言葉が意味を持っている以上、私たちはその言葉の文法を理解することにも注意を払わなければならない。聖霊は、文法も注意深く用いた。それゆえ、ガラテヤ人への手紙3章16~18節においてパウロは、「子孫」という名詞が創世記17章7節では複数形ではなく単数形であるという事実から、正しい解釈と誤った解釈との区別をつけることができたのである。

 聖書が文字で書かれた神の御言葉であると確信して、自分の母国語で聖書を読むことができるのは、旧約聖書と新約聖書が書かれたおもに二つの言語、ヘブル語とギリシャ語の学者のおかげを大いにこうむっている。注意深く聖書を学ぶ者のためには、非常に豊富な言語資料があり、誤りなく聖書を理解する助けとなる。文法は第一の原則ではないが、重要な原則である。


7.最初の記述の原則

 私たちは最初の記述の重要性を軽く見てはならない。からだなる集会については多くの面から記されているが、その初めは、マタイの福音書16章18節において主イエス・キリストご自身の口から出ており、地域集会の最初の記述は、やはりマタイの福音書18章15~20節である。一つの真理に関する最初の記述には、その真理の重要な要素が含まれており、聖書の他の部分で神の啓示が示されていくにつれて、それがさらに詳しく説明される。これが聖書の一般的な原則の一つであることを示すことができる。真理の最初の記述は、その真理に関する一切を含んでいるわけではないが、教えは御言葉の中で次第に展開していくので、最初の記述はその萌芽と言えるであろう。


8.進展していく記述の原則

 新約聖書では教えが進展していく。神はこの原則を用いて、御言葉が終結に近づくにつれて、真理を次第に明らかにお示しになる。たとえば、マタイの福音書7章7節で主イエスが祈りについて教えられ、それから新約聖書の終わり(Ⅰヨハネ5:14~15)に至るまで、その主題が展開されている。

 この原則を実証する別の方法がある。使徒と預言者は、初期のあかしでは際立った位置を占めていたが、彼らの働きは土台であり、彼らはやがて退いた。一時的なしるしの賜物は、初期の手紙には、やはり際立った位置を占めていたものの、後の手紙では現れていない。パウロが書いた手紙では、長老は初期の手紙にほとんど登場していないが、後の手紙では重要な位置を占めている。


9.区別の原則

 この原則は、第一の文脈の原則と密接な関係をもっているが、特に説明を要するものである。それぞれの時代区分を考えないでも、律法と恵みの違いを聖書の読者が区別することは容易である。「契約の神学者」と自称している人たちでさえも、この原則にはほとんど疑問を抱いてはいない。既に述べた、マイルズ・カヴァディルの要求に従って、私たちが読んでいるものを区別しなければならないことに、すべての人が同意している。

 律法と恵みを区別することが必要であるだけでなく、教理的な真理と実際的な真理、救いと報い、イスラエルと集会、二回の来臨、キリストのからだなる集会と信者の地域的な集いである集会との区別なども必要である。