三位一体の教理

 

1.用語

A. 三位一体

 「三位一体」(trinity)という用語それ自身は聖書の用語ではない。それは聖書において見い出されない。それは、神(the Godhead)の三つの位格(three persons)についての聖書的な教理を描くのに、テルトリヌアス(Tertullian)によって最初に使われた用語であった。神学にとって、聖書の教理が厳密に維持される限りにおいては、自身を聖書の実際の言語に制限することは本質的ではない。

 

B. 位格あるいは人格(person)

 わたしたちは、人格的なお方として神について語ってきたし、また、そうすることは適切であるが、わたしたちは通常、神を位格(a person)として言及しないのである。より好まれる使用法は「位格」(person)という用語を、「神」(the Godhead)において見い出される自己意識の三つの座を区別するために、すなわち、父、子、聖霊を区別するために留保しておくことである。ギリシャ語の用語は、ύπόσταις(hypostasis:ヒュポスタシス)であり、ラテン語ではpersona(ペルソナ)である。

 

C.固有性と属性の区別

 前章において、「属性」(attribute)という用語は、神の性質(the nature of Deity)を描くために用いられた。神学者たちは、「固有性」(property)という言葉を、三位一体の位格(the Persons)を区別的する特徴(the distinguishing character)を描くために使った。属性は「神」(the Godhead)のすべてにあてはまるが、固有性は、こうして、一つの位格を他の位格から区別するのである。

 

D.存在論的三位一体と経綸的三位一体は区別される

 三位一体に適用される「存在論的」(ontological)という用語は、神の内における永遠的で内在的な区別(the eternal and immanent distinction within the Godhead)に言及する。それは、これらの区別の必然的な性格を示唆するのに良い。「経綸的三位一体」(the economical Trinity)という用語は、他方、精確な表現ではない。神の位格が贖罪の経綸において相互に持つところの経綸的な関係(the economic relations which the persons of the Godhead sustain to one anotherin the economy of redemption)に言及すること方がよりよい良い。経綸的三位一体(the economical Trinity)という用語の危険性は、存在論的三位一体(ontological Trinity)の永遠的で内在的な関係が贖罪の経綸によって幾分停止されるかあるいは変容されるという印象をわたしたちが持つかもしれないことにある。これはその場合ではないので、こうして、この表現を使わない方が好ましい。

 

Ⅱ.三位一体への聖書の証言

A.  旧約聖書の証言

わたしたちは、新約聖書においてほどには十分に発展させられている三位一体の教理を旧約聖書には見い出さないが、それにもかかわらず、旧・新約聖書の両方において啓示されている神は三位一体の神であることを覚えねばならないし、また、こうして、わたしたちは、旧約聖書における神の三位一体的性格(his trinitarian character)についての徴候(the indications)を見い出す。三位一体の真理の最も驚くべき証拠の一つは、新約聖書のすべての著者たちが三位一体者たち(the trinitarians)という事実である。これらの著者たちの多くは、ユダヤ人の信仰において(in the Jewish faith)育てられてきたということが覚えられるとき、それは最も顕著な証言である。旧約聖書の研究は、そのことは、受肉と聖霊の注ぎにおける三位一体についての明らかな啓示に基づく三位一体のそのような受け入れに対する備えであったことを示すのである。

 

1.神の複数性

 それは三位一体の結論的な証拠ではないが、神の最も一般的な名前であるエロヒーム(Elohim)は、それは複数の名前(the plural name)であり、神(the Godhead)の内に複数性(a plurality)を示唆する。これは、近代に王たちによって見い出される尊厳の複数形(a plurality of majesty)以上の何ものでものということが、しばしば論じられる。これに対して、イスラエルあるいはユダの王たちに関して記録されたヘブライ人たちによる尊厳の複数性の使用法はないというのが事実である。三位一体の十分な教理が旧約聖書におけるこれらの複数形の使用法から推論され得ないが、この教理が一度新約聖書において啓示されれば、この複数形についての真の意義が明らかになるのである。

 

2.示唆された位格の三つ性(the threeness)

旧約聖書には、神に(the Godhead)おいて見い出される複数形が三位一体を実際に示唆している(suggest)章句がある。たとえば、詩編33:6で「御言葉によって天は造られ/主の口の息吹によって天の万象は造られた」。また詩編147:18で「御言葉を遣わされれば、それは溶け/息を吹きかけられれば、流れる水となる」。創造と摂理が主の言葉に帰させられている。創世紀1:3、詩編33:6、9、147:18、ヨエル2:11。言葉が知恵として人格化されている。ヨブ28:23-27。箴言8:22以下。他方、創造と摂理がイェホーワ(Jehovah)の霊に帰せられている。創世紀1:2、詩編33:6、104:30、139:7、ヨブ26:13、27:3、32:8、33:4、イザヤ40:7、59:19。

 バーフィンクは言う。「エロヒーム(Elohim:神)と世界(the cosmos:the universe)は二元論的な仕方においてに相互に対立しない。かえって、世界は神により造られ、神の言葉をその客観的原理として持ち、神の霊をその主観的原理として持つのである。神は、最初、世界を思い、次に神の全能の言葉によって世界を存在に呼び出したのである。そして、一度実現すると、それは分離した存在を持つことはなく、すなわち、神から離れたりあるいは神に反することがなく、かえって、世界は神の霊に依拠するのである」(Doctrine of God,op.cit.p.256)。

 神の三つ性(the threeness of God)は、アロンの祝祷において示唆されており(民数記6:24-26)、それは、使徒的祝祷(コリント二13:14)のおいても対応するもの(counterpart)を持っている。三つ性への最も明白な言及は詩編33:6、イザヤ11:1-5、48:16、53:9-12、61:1そしてハガイ2:4-6。

 

3.言及された区別される位格

a.子

  主の御使いは、主と区別されるお方として見られているし、また、主と同一視もされている(創世紀16:6-13、18、21:17-20、22:11-19、24:7、40、28:13-17、31:11-13、32:24-30、48:15-16、出エジプト3:2以下、13:21、14:19、23:2-23、32:34、33:2以下、ヨシュア5:13-14、志師2:1-14、6:11-24、13:2-23などを見よ)。約束されたメシアは「力ある神」(the Mighty God)と呼ばれる(イザヤ6:5)。彼は「主の若枝」(the branch of Jehovah)である(イザヤ4:2)。彼は「主なる神」(the Lord Jehovah)   として描かれていて、彼は彼の群れを養う羊飼いとしてやって来る(イザヤ40:10-11)。彼は「主は我らの救い」(Jehovah our Righteousness)と呼ばれる(エレミヤ23:6)。

 これらの章句から、旧約聖書には、神における区別される位格(distinct persons)があるということの十分な証拠がある。さらに、メシアは、それらの位格の一つであることが見らえよう。ダビデは彼を彼の主と呼び、そして、これはイエスにより、彼自身の神性の証拠として引用されている(詩編110:1、マタイ22:41-45)。 

 

b.聖霊

 主の霊(the Spirit of the Lord)について言及が旧約聖書を貫いている。創世紀1:2は霊が創造に関与していることを語っている。神の霊は旧約聖書を貫いて賜物の源泉である。霊は勇気の源泉である(士師記3:10、6:34、11:29、1:2、5、サムエル上11:6)。霊は肉体の力の源泉である(ヨブ32:8、イザヤ11:2)。聖さの源泉である(詩編51:12、イザヤ63:10)、預言の源泉である(民数記11:2、42:1、61:1)。霊は特にメシアと関係している(イザヤ11:2、42:1、61:1)。霊はすべての肉に注がれることが約束されている(ヨエル2:28-29、イザヤ32:13、44:3、エゼキエル36:26-27)。

 

4.旧約聖書の証言のまとめ

 わたしたちは、新約聖書においてと同様に旧約聖書において十分に啓示されたものとしての三位一体の教理を見い出すことはないが、新約聖書においてそのより十分な啓示をもつことの十分な証拠があり、弟子たちは直ちに三位一体論者になったのである。一度、わたしたちがその教理についての新約聖書の啓示を持つと、わたしたちは旧約聖書に帰ることができ、そして、その教理についての多くがつじつまが合うのである。三位一体の概念について禁止するものは旧約聖書に何もないのであり、また、多くが三位一体の概念を指し示す(points to it)。

 

B.  新約聖書の証言

1. 新約聖書における神の唯一性(the unity of God)

  新約聖書は、旧約聖書の諸教理の適切な発展である。旧約聖書の最も首尾一貫した教えの一つは、神の唯一性である。これも新約聖書において断言されている(ヨハネ17:3、コリント一8:4)。

 

2. 創造についての新約聖書の教え

 新約聖書は、創造に関して、それは三位一体の各位格(the respective persons)に関係しているとして更なる洞察を追加している。父の名前が総創者について使われている(マタイ7:11、ルカ3:38、ヨハネ4:21、使徒言行録17:28、コリント一8:6、ヘブライ12:9)。万物が神によると言われている(コリント一8:6)。御子あるいはロゴス(Logos)は、そのお方を通して父が万物を創造したのである(ヨハネ1:3、コリント一8:6、コロサイ1:15-17、ヘブライ1:3)。聖霊が創造のみわざを美しいもので飾り(adorn)、終わらせるのである(マタイ1:18、4:1、マルコ1:12、ルカ1:35、4:1、ローマ1:4)。

 

3. 新約聖書における三位一体の直接的な関係

 新約聖書は三位一体の啓示で満ちている。一つのこととして、キリストの誕生と洗礼は三位一体を啓示する(マタイ1:18以下、ルカ1:35、マタイ3:16-17、マルコ1:10-11、ルカ3:21-22)。キリストの教えは三位一体に言及している。彼は常に御父について言及する(ヨハネ2:16、4:24、5;17、26、マタイ11:27)。彼は御父から永遠に生まれた愛する御子(the eternally begotten and beloved Son of the Father)である(マタイ11:27、21:37-39、ヨハネ3:16)。彼は御父と栄光と力において同等である(ヨハネ1:14、5:26、10:30)。

 聖霊は、キリストがメシアとしてのみわざを資格づけるお方(the One who qualifies Christ for his work as Messiah)である(マルコ1:12、ルカ4:1、14、ヨハネ3;34)。イエスは、聖霊を御自分が御父のもとから送る別の助け主と呼ぶ(ヨハネ15:26)。イエスは、特に「偉大な宣教命令」(the Great Commission)と洗礼様式(the baptismal formula)において三位一体に言及している。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」(マタイ28:19)。「御名」(the name)は単数であるが、しかし、それは三つの位格を包含している。三つはこの叙述においてお互いに同等である。

 贖罪の経綸(the economy of redemption)は、三つの位格の間で分たれている。「御旨(the good pleasure)、予知、選び、力、愛、御国は御父に関係する(マタイ6:13、ヨハネ3:16、ローマ8:2、9、エフェソ1:9、ペトロ一1:2)。和解、仲保者性、贖罪、恩恵、義は御子に関係する(マタイ1:21、コリント一1:30、エフェソ1:10、テモテ一2:5、ペトロ一1:2、ヨハネ一2:2など)。再生、活力回復(rejuvenation)、聖化、まじわりは聖霊に関係する(ヨハネ3:5、ヨハネ14:16、ローマ5:5、8:15、14:17、コリント二1:21-22、ペトロ一1:2、ヨハネ一5:6など)。

 使徒たちは、三つの名前を同等の卓越性をもって同等に置くのである(コリント一8:6、12:4-6、コリント二13:14、テサロニケ二2:13-14、エフェソ4:4-6、ペトロ一1:2、ヨハネ一5:4-7、黙示録1:4-6)」(Ibid.,p.265)。

 

Ⅲ.三位一体の教理の形成

 わたしたちは、三位一体の教理についての聖書の証言を見てきた。わたしたちは、今や、この概観の結果を組織的な叙述において与えよう。三位一体の教理についての最も簡単な叙述は、ウェストミンスター小教理問答の第6問である。「神には、三つの位格があり、それは父、子、そして聖霊です。これら三つの位格は、本質において同一であり、力と栄光において同等の、ひとりの神です」。

 

A.  神は唯一である

 神の唯一性あるいはひとり性(the unity or oneness of God)は、聖書において明白に教えられている。「あなたは、主こそ神であり、ほかに神はいないということを示され、知るに至った」(申命記4:35)。

 

B.    神は三である

 神はまさに唯一であるように三である(God is three)。このことは、神は唯一であり、また、同じ意味で三であることを言うのではない。というのは、これは矛盾だからである。一連の否定的なものによって、また、一連の肯定的なものによって、わたしたちは神の唯一性と三位一体の意味を明白にすることが可能である。

1. 唯一性は、神は区別のない単子(a distinct monad)ではない。

2.  神は、促進(promotion)、成長、発展によって三となったお方ではない。

3.  神は一つと三つではない(He is not one and three)。

4.積極的には(Positively)、わたしたちは、三つにおける一つであり、また、一つにおける三つであると断言できるであろう(God is on IN three and three IN one)。神の唯一性あるいはひとり性は、神の三つの唯一性の前に存在するのでなない(not exist before his tri-unity)。唯一性は三位一体よりももっと基本的あるいは重要とうのではない(The unity is NOT more basic or important than the trinity)。このことは、唯一性が最初により明白に啓示されたことを否定することではない。しかし、それはここでの疑問ではない。神は永遠的に三位一体の神として存在し、また、こうして、唯一性も三位一体もより基本的ということはない。それゆえ、究極的には、神は何故存在するのかと質問することと同様に、神は何故三位一体なのかと質問することは考えられない。神は三位一体であるから、神は単純に三位一体なのである。神は永遠的にまた必然的に三位一体である。神はいます、そして、神は父であり、子であり、聖霊なのである。

  この真理には偉大な神秘がある。わたしたちは、三つの位格の栄光によって囲まれていることなしに、ひとりの生ける真の神を考えることは不可能である。信者にとって、このことは、困惑と疑いを引き起こす神秘ではない。むしろ、崇拝と礼拝を引き起こす神秘なのである。わたしたちの神は、わたしたちの理解力と理解を超越したお方なのである。

 

Ⅳ.三位一体の区別

 三位一体の位格の各々の区別あるいは固有性(properties)は、本質あるいは存在の違い(differences of essence or being)ではなく、むしろ、それらは神の存在(the Being)内の区別なのである。それらは現実である。それらは永遠的であり必然的である。各位格の特別な固有性はその位格の排他的固有性(his exclusive property)であり、他の位格に決して流通しない(never communicated)のである。父のみが父である。彼は永遠に父であり、決して父になることを始めたりはしない。父であることあるいは父性(fatherhood or paternity)は、三位一体の第一位格(the first person)の排他的固有性である。

 三位一体の第二位格は子だけである。彼は永遠に子であり、決して子になることを始めたりはしない。子性(sonship)の固有性は、子の排他的固有性である。父とともに彼は聖霊を発出する(spirates)のである。

三位一体の第三位格は聖霊だけである、彼は、永遠に聖霊であり、決して聖霊であることを始めたりはしない。彼は永遠に父と子から出る(proceeds)(ヨハネ15:26、使徒言行録2:33)。子の永遠的な生まれも御霊の永遠的発出(the eternal generation)もその両方の精確な性質はわたしたちには神秘である。神学者たちによるこれらの用語の使用は、聖書から直接来ている。

 ニカイヤ神学者たち(325年)によるこれらの概念の扱いを考察することは興味深い。彼らは、子の永遠の生まれを次のように定義することを求めた。第1に、キリストが神の子であることは創造によることではない。第2に、それは時間的でなく、永遠的である。第3に、それは人間が生まれる仕方に従うのではない(not after the manner of human generation)。第4に、それは本質の分割によるのではない(not division of essence)。これらの4つの否定を与えた後で、次の積極的な思索(the following positive speculations)が示唆される。第1に、父は子の存在始まりであり、源泉である、原因であり、の原理である。第2に、子は、こうして、御自身の本質を父から永遠で定義不可能な生まれによって神的本質を父から子へと得(derive)るのである。カルヴァンは、これらの最後の2つの思索に挑戦した最初の人であった。アルヴァンは、子は彼の神性に関して「御自身で」(a seo ipso)神性であったことを教えた。子は父から彼の本質を得たのではなかった。彼の本質において父への子の従属(the subordination of the Son in his essence to the Father)は聖書において根拠がない。同じことが聖霊についても言われよう。聖霊は彼の本質において、「御自身で」(a seo ipso)神性なのである。

 

     表のかたちにおいて表わされる位格の関係

 

位格   名前  排他的固有性  他の位格との関係

 

第1   父     父性     永遠に子を生む

                     永遠に聖霊を発出する

 

第2   子     子性     永遠に父から生まれる

                     永遠に聖霊を発出する

 

第3   聖霊     発出      永遠に父と子から出る

 

三つの位格の存在様式(the mode of existence)においては秩序があり、それは覆すことができないものであり、交換され得ない固有性であり、関係の秩序なのである。しかしながら、このことは、従属として解釈されてはならない。位格間のこれらの区別は、本質の区別ではなく、位格の区別なのである。三つの位格は、「本質において同一であり、力と栄光において同等」(the same in substance,and equal in power and glory)。神の本質は、無限で、永遠で、不変な存在と完全さを包含する。わたしたちがこれらの位格の各位格を神性として(as deity)認めることは、本質における従属があり得ないことを意味するのである。

 経綸的関係は適切な区別を啓示し、それは、これらの永遠の位格的な区別に依拠する。創造の源として通常、考えられるが父である。子は、恵みの契約における父の命令(the bidding)を行うために来たお方なのである。そして、聖霊は、子によってなされた贖罪のみわざを適用するために父と子の両方から送られるお方なのである。

 神(the Godhead)は、それによって個々の位格が区別されるところの区別よりももっと包含的である。こうして、「神は父である」あるいは「神は子である」あるいは「神は聖霊である」という言うことは厳密には正しくない。もちろん、聖書は、「神」という名前を父の位格的名前(a personal name)として使うが、しかし、十分な神学的な意味においては、「神」という名前は、三つの位格のどの一つの位格よりももっと包括的である。他方、三位一体の各位格は神的であるから、「父は神である」あるいは「子は神である」あるいは「聖霊は神である」と言うことは適切であることが考察されるべきである。シェッド(Shedd)はこのことを次のようにまとめている。「三位一体の位格は唯一性におけるすべてのことを包含するが、神の三位一体におけるすべてのことを包含するのではない。本質におけるすべてのことを包含するが、本質の様式(the modes)におけるすべてを包含するのではない」(W.C.T.Shedd, Dogmatic Theology:Grand Rapids:Zondervan Publishing House,n.d.,reprint of 1888edition,Vol.Ⅰ.280)。もし、わたしたちが神を文章の主語にするならば、そのとき、わたしたちは「神は父、子、聖霊である」と言うであろう。

 

 

解説

 

以上で、「第10章:三位一体の教理」が終わったので5点の解説をする。まず第1点は、用語についてである。「三位一体」(trinity)という用語それ自身は聖書に出てこない用語であるが、しかし、聖書の教えを的確に表すものとしてテルトリヌアス以来、神学において用いられ今日に至ることをスミスは述べる。なお、三位一体は、聖書が教える唯ひとりの受ける真の神の存在様式、存在の仕方を意味し、唯ひとりの神の内に区別される三つの位格(あるいは人格)があることを表す。その際、位格(あるいは人格)とは何かが問われるが、位格(あるいは人格)は、他と区別する自己意識の座がある存在を意味する。また、三位一体は、三つの位格(あるいは人格)の対等・同等の永遠的な内在的な愛のまじわりと関係を表す本体論的三位一体(あるいは内在的三位一体)と、父・子・聖霊が時間と歴史において贖いのみわざをされる観点から考えられる経綸的三位一体(the economical Trinity)に区別される。本体論的三位一体(あるいは内在的三位一体)においては、父・子・聖霊は対等・同等で従属関係はないが、経綸的三位一体においては、父は罪人の贖い(救い)の御計画を立て、子(イエス・キリスト)は父の立てた御計画に従って贖いをし、聖霊は子(イエス・キリスト)の贖いを罪人に当てはめ適用する。こうして、時間と歴史においては、子は父に従属し、聖霊は子に従属するが、この関係は各位格の本質における従属ではなく、職務的従属である。父・子・聖霊には本来従属関係はなお。時間と歴史における職務的従属は反映されて、経綸的三位一体においては、父が第一位格、子が第二位格、聖霊が第三位格と呼ばれる。 拙著「ウェストミンスター信仰告白の解説」の第一章第三節「三位一体の神」の解説を参照のこと。

 ちなみに経綸的という日本語は、日常生活においてほとんど使われないので意味がわかりにくいかもしれないが、経綸的を表すeconomicalの原語はギリシャ語のοικονομια(oikonomia:オイコノミア)で、意味は「家の管理」(household management)という意味で、家の管理は、家族内における役割や職務を割り当てることを含む。こうして、家の管理はそれぞれの働きの効果に関係する。そこから、罪の贖い(救い)における父・子・聖霊の三つの位格の役割と関係が考察されることなり、神学において経綸的三位一体が語られるようになった。

 第2点は、三位一体についての聖書の証言である。新約聖書においては、三位一体の教えは極めて明白である。代表的なところを挙げれば、マタイ28:18-20の大委任(あるいは伝道命令との言われる)、コリント二13:13の祝祷などである。では、旧約聖書においてはどうか。すると、スミスは旧約聖書だけで三位一体の教えがわかるということは通説ではないことを認めながらも、しかし、三位一体の徴候があることを語る。すなわち、旧約聖書には、神の唯一性を述べるとともに神の内に複数の位格があることを表しているとスミスは述べる。神が「御自身」を「わたしたち」と呼ぶ個所があるが、それは神の尊厳を表す複数性と言われているが、それとともに神の内に複数の位格があることを表すとスミスは理解する。また、「主の御使い」が現れるが、「主の御使い」は神と区別されるが、また、神御自身であることも語られているし、また、神の霊も出てくる。これらは、新約聖書の三位一体についての教えの備えとなっていると語る。そして、実際、新約聖書の著者たちは、イエス・キリストの受肉と聖霊降臨を経て、三位一体を十分確信したことを述べる。

 第3点は、三位一体の教理の形成についてである。教会は、激しい論争を経て聖書の教えである三位一体の教理の形成をしてきたが、スミスは、三位一体の教理を最も単純明快に示すものとして、ウェストミンスター小教理問答の第6問は挙げる。

「神には、三つの位格があり、それは父、子、そして聖霊です。これら三つの位格は、本質において同一であり、力と栄光において同等の、ひとりの神です」。ウェストミンスター小教理問答は、17世紀の半ばの英国で、ウェストミンスター信仰告白、大教理問答とともに作られ、3つ合わせて「ウェストミンスター信仰基準」(Westminster Standards)と呼ばれるが、「ウェストミンスター信仰基準」は聖書の教理を最も体系的に表わすすぐれた信条として、わたしたちの日本キリスト改革派教会の憲法また信仰規準として前文つきで採用されている。そして、小教理は、本来、当時の家庭で父親が子供たちに聖書の教えを教える目的で策されたものであり、また、今日でも主の日の礼拝で交読されて親しまれていたりもするので、実際とてもわかり易いと思う。

 なお、三位一体の教理をわかり易く説明するために、しばしば、この世のものにたとえて説明することもなされてきた。たとえば、太陽は一つであるが同時に光であり、熱である、力の3つである、それと同じである、あるいは、似ているなどと語られることもあったが、宗教改革者カルヴァンは、この世のもので、三位一体の教理を説明することはできない。この世のもので、三位一体の教理と同じものや似ているものは何もないことを語り、聖書が教えるままに信仰によって受け入れるように「綱要」で述べている。

 また、近代・現代の世界の改革派神学の強固な礎を築いたオランダ改革派の神学者のヘルマン・バーフィンクは、「我らの理にかなった信仰」(Our Reasonable faith:日本語翻訳では「信徒のための改革派組織神学」(上巻・下巻:松田一男訳:聖恵授産所出版部 1984)の第十章「三位一体の神」において、三位一体の教理の根本的重要性と豊かさについて次のように述べている。「神は三位一体的存在の仕方によって、ご自分を豊かに、生き生きと現わしておられる」、「それゆえに、三位一体の信仰告白は、キリスト教の要約である。それなしでは、創造も贖いも、聖化も、純粋には維持することはできない」、「父の愛と御子の恵みと聖霊の交わりの中に、人々の救いのすべてが含まれているのである」。また、バーフィンクのオランダ語の「改革派教義学」(GereformeerdeDogmatiek)においては、三位一体はキリスト教信仰の土台であり、バックボーンであると述べて、その根本的重要性を述べている。

 弟4点は、三位一体内の位格(人格)の区別である。父・子・聖霊の区別があり各位格には独自の固有性がある。すなわち、父は永遠に子を生み、         永遠に聖霊を発出し、子は永遠に父から生まれ、永遠に聖霊を発出し、聖霊は永遠に父と子から出るのである。これらの固有性は神の属性ではない。神の属性は三つの位格に共通するが、固有性は各位格のみに属する。

 第5点は、三位一体は、キリストの神性に関し、325年のニカイヤ会議において、キリストの神性が最後的に明白にされたことにより確立したことである。この会議は、後にイオータ論争と言われた。というのは、会議において、異端のアリウスは、キリストは父なる神の最初の被造物で、父の本質と類似質(όμοιουιος:ホモイウーシオス)と主張したが、正統派のアタナシウスは、キリストは父なる神の本質と同質(όμοουιος:ホモウーシオス)と主張し、両者の主張の違いはギリシャ語でイオータ(ι)があるかどうかで、異端と正統とが分かれたのである。そこで、後にイオータ論争と呼ばれた。

こうして、三位一体の教理は、教会の勝手な創作や神学者たちの人間的な論証などではなく、「三位一体の教理は、神の啓示によって教えられている教理である」(バーフィンク)として、わたしたちも信仰によって敬虔に受け入れ、今の時代に少しも揺るがずに告白してこう。


http://minoru.la.coocan.jp/morton10.html