人間の創造

 


序論


 


人間の起源と性質は、人間にとって最も魅惑的な事柄の一つである。このことは、主題の事柄が人間自身であるという事実から生じる。ベルクーワは言う。


「人間は、一般の意識においてと同様に学問的な装いにおいても、人間の人間性の多くの局面に、そして、こうして人間自身に常に関心を抱いてきた。しかし、とは言え、わたしたちの時代において、この問題に与えられる注目が新しい緊急性、重大性、集中を持つことを、わたしたちはほとんど否定できない。集中的で現代的な関心は、20世紀のいろいろな出来事において、人間の性質の実際の顕れと密接に結びついている。人間の性質についてのわたしたちの関心は、純粋に抽象的で理論的な関心から生じるのではなく、わたしたちが、わたしたちの時代において、直接的でしばしば警告あるいは破局な仕方において(in direct and often alarming or catastrophic manner)人間を「知る」(to know)ことを学んだという事実と関係している」(G.C.Berkouwer,Man,The Image of God :Grand Rapids:Wm.B.Eerdmans Publishing Co.,1962 p.12)。


ベルクーワは、わたしたちが人間を知ることの難しさは、それは自己認識(self-knowing)を含むという事実から生じることを示唆することに進む。


「人間の性質についてのどの見解も、他の人々に影響を与えるだけではなく、見解を出しつつある人間(the man doing the viewing)にも影響を与えるのである。誰も自分自身を自分自身の性質から分離できる人はいない。そして、それは、『人間』(man)についてのどの判断にも、また、人間の性質についてのどの見解にもそのような実存的な性格を与えるというまさにこの事実なのである。わたしたちが人間についてわたしたちの認識の源泉に関して問うとき、わたしたちは『自分自身』(ourselves)についての認識の源泉について問うているのである。また、『認識』(knowledge)という同じ言葉の下に両方を含めることは最初の一見で、十分に単純に思えるが、でもより厳密に吟味するとき、わたしたちは、むしろ、異なった状況に直面するのである・・・人間は、真の自己認識に来ることなしに、他の人々の生へのよき洞察(a good insight into the lives of others)をしばしば得ることができるかもしれないのである」(Ibid.,p.18)。


人間自身の心の欺きのゆえに、また、人間は自分自身に客観的にアプローチできない事実ゆえに、人間についての人間の認識の源泉は神の啓示であらねばならない。こうして、わたしたちは、わたしたちの起源と性質についての理念を求めて再び聖書に振り向くのである。


 


Ⅰ.人間の起源についての明白な特徴


A.  創世紀1:1-2:3


創世紀1章における創造の説明についての研究から、わたしたちは、人間の創造のために地(the earth)についての進展的準備があることを見てきた。人間は、神の創造的活動のすべてのクライマックスとしての章句において表わされている。この章句の研究は、人間の創造におけるユニークさがあることを啓示する。非人間的生命の産出のより早い各段階において、神の命令と実現の公式(the formula of God’s command and fulfillment)は、「神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた」(創世紀1:11、12)。「神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ」(創世紀1:20)。「神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった」(創世紀1:24)。しかしながら、人間の創造に来ると、この行為を表すのに用いられている原語における違いがある。


 創世紀1:26は「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう』」と読む」カルヴァンは言う。「これまでのところ神は単に命令するものとして導入されてきたが、今や、神が御自分のみわざの最もすぐれたみわざに近づいたとき、神は協議(consultation)を始めた」(Commentary on Genesis,Loci,cit.rev.ed.)。この神の協議は、人間がユニークで、被造物の他のすべて以上に高くされている(elevated more above all of the rest  of creation)ことを意味する。


創世紀1:27は言う。「神は御自分にかたどって人を創造された(ויברא:waybara:ワイバーラー)。神にかたどって創造された(ברא:bara:バーラー)。男と女に創造された(ברא:bara:バーラー)」。わたしたちは、旧約聖書における(ברא:bara:バーラー)という用語の使用法についてのユニークさに注目してきた。この用語に関するゲールハルト・フォン ラート(Von Rad)の見解に注目することは興味深い。「神の創造を表すために、ヘブライ語はすでに一つの動詞を持っている。それは、フェニキヤ人(the Phoenician)が示すように、芸術的な創造(the artistic creation)を示すことができた。しかし、旧約聖書の使用法は、この比較さえも拒否するのである。その動詞は、神の創造的な活動をもっぱら(exclusively)示すのである。その言語の中にまでも広がるところのこの効果的な神学的抑制(this effective theological constraint) は意義が深い・・・それは一つの創造的な活動を意味する。それは、類似がないという主義である(which on principlewithout analogy)。「創造する」(create)というברא:bara:バーラーという動詞は、努力を完全に要しないこと(complete effortlessness)と「無からの創造」(creatio ex nihilo)の両方の理念を含むということは正しい。何故なら、それは材料についての如何なる叙述とも決して睦びついていないからである」(Commentary on Genesis,p.57)。


 フォン ラートは27節について、こうして、注解する。「27節のברא:bara:バーラーという動詞の使用は絶対的に類似がない(which  is  absolutely without analogy)ところの創造的な神のその活動に対して最も十分な意義を受けるのである。それは、ここで神のすべての創造性が1節から志向されてきたところの高い点と目標が到達されたことを明らかにするために、一つの節において3回も生じるのである」(Ibid.,p.55)。 


 わたしたちは、この言葉は第二次的創造についても用いられることを以前に見たが、しかし、ヘブライ語のキャル形(in the Qal form)においては、神だけに用いられ、そして、ここで強調されるところのユニークな強調を持つのである。


 この点におけるイメージについての十分な意義に入ることなしに、わたしたちは、「神にかたどって」(after the image of God)という表現は、再び創造における人間の特別な場所を教える。人間の模範(his exemplar)は地上的でなく(not earthly)、 天上的なので(heavenly)ある・・・神御自身なのである。このことは神についてだけ言われるのである。


 この章句の他の特徴は、人間が託された支配権(the dominion)である。この支配はかたち(the image)ではないが、しかし、神にかたどって創造された人間の結果である(a consequence)。人間は、こうして、地上における神についての事柄を司るべき副摂政(the voce-regent of God)なのである。何故なら、人間は神にかたどり、神に似て創造されたからである。


 


B.  創世紀2:7


創世紀の第2章は、人間の創造の第2の説明である。それは、第1の説明と矛盾しない。それは、原初の創造と地の秩序づけ(the ordering of the earth)が進展的な仕方で人間の創造における頂点に到達すること(culminating)を表している。第2章においては、人間が中心的(central)であり、また、最初に(first)導入される。地の残り(the rest of the earth)が人間のために造られるものとして表わされている。2つの章は、人間が両方の中心的な被造物であることにおいて、それゆえ同じなのである。


 7節は次のように読む。「主なる神は、土(アダマ)の塵עפרמיןהאדאמה:aphar min haadamah:アーファール ミン ハーアーダーマー)で人(アダム)(האדם:haadam:ハーアーダーム)を形体づくり(וייצר:wayitser:ウイツェル)、その鼻に命の息(נפשתחיים:nismathayim:ニシュマト ハイム)を吹き入れられた。人はこうして生きる者(נפשחיה:nepehshhayyah:ネフェシュ ハイッヤー)となった」。この節は、創造と、また、こうして、人間の構成についてついての幾ばくかの詳しさをわたしたちに与える。注目すべき最初のことは、人間が土の塵から造られたことである(עפרמיןהאדאמה:aphar min haadamah:アーファール ミン ハーアーダーマー)。このことは、人間を形成するようにとの地の命令(a commanding of the earth)ではないし、あるいは、他の生き物の場合のように、産み出す(to bring forth)


命令ではない。神が人間の形成において直接に行為するお方として表わされている。動物は土の同じ構成要素(the same constituent of dust)を持つが、しかし、形成の仕方(the manner of the formation)は同じではない。さらに、この被造物の名称はその地上的な起源(אדמה:adamah:アダマー:塵:earth)を思い起こさせるものである。「塵にすぎないお前は塵に返る」(3:19)と彼に言われるように、人間は「塵」(עפר:aphar :earth)と呼ばれる。人間についてのこの総称的な名称(this generic name)は、人間の塵的な始まり(his earthly beginning)を思い起こさせるだけでなく、その句は人間を描くのに用いられる。神が命の息を吹き込んだ後に、人間は生きる者(a living soul:נפשחיה:nephesh hayyah:ネフシュ ハイッヤー)になるのである。これは、他の生きる被造物と同じ用語における人間の生気(his animation)を描く用語でもある(創世紀2:19、1:20、1:24も見よ。そこでは、「生きる者」(נפשחיה:living soul:ネフェシュ ハイッヤー)が、魚、鳥、4本足の動物についても用いられている。デリッチ(Delitszch)は言う。「人間は自分の名前((האדם:haadam:ハーアーダーム)を塵(אדמה:adamah:アダマー)から以外の何ものからも持たない。何故なら、それは神が人間をご自分のかたちに造られたところの人間の特徴的な尊さ(his characteristic dignity)であるところのものではないからである。かえって、これは、神が人間を地の一つ(the earthly one)に造ったこと・・・人間の自然的な構成の観点においては地から取られたのである・・・神のかたちにかたどって(after His image)(A System of Biblical Psychology:GrandRapids:Baker Book House,1966 p.83)。


 地の塵への言及は、地がそれによって造られた、あるいは、その構成要素である細かい塵(the fine dust)への言及である。創世紀3:19と、そこでは「塵にすぎないお前は塵に返る」と言われているが、わたしたちの体が塵に帰るという事実の現在の現実性は、それはわたしたちの体の構成要素が地的と(earthly)いう事実を強調しているのである。


 デリッチ(Delitszch)は、人間の創造に用いられた特殊な地について示唆的な註解を再び持っている。「それはエデンの地(earth of Eden)である。喜びの土地(the land of delight)であり、それゆえ、楽園の木々がそこから植えたところの、また、そこから楽園の獣たちが形成されたところの同じ源であり土地(the same source and ground)である」(Ibid.,p.93)。


 人間が生きる者となったのは、神が命の息を人間の体に吹き入れてからである。明らかに、この吹き込み(this in-breathing)は、それ自体が神の創造的活動の一部であった。それは、人間を人間とするところのこれであった。わたしたちは、「生きる者」(נפשחיה:nephesh hayyah:ネフェシュ ハイッヤー)という表現は、人間を他の被造物と区別しないことにすでに注目した。換言すれば、これは、人間の霊魂(a human soul)を持つ人間をすべての他の生き物(the animate being)と区別するものとして語る用語ではないのである。 むしろ、それは、すべての生き物(all animate beings)の種(the genus)についての記述であり、人間と動物の両方を含むのである。神が、この吹き込むこと(this in-breathing)に先立つ如何なる生気(any animation)を持つものとして形成したところの体についての理念はない。こうして、これは、動物から進化したところの体への霊魂の追加の記述(the description of the addition of a soul to a body)であるという理念を締め出すのである。


生きる者(a living soul)としての人間を構成した創造的な行為は、人間を道徳的、理性的、霊的な存在としての人間を構成したところの行為でもあった。というのは、人間は直ちにそのようなものとして扱われているからである。しかしながら、この神的な吹き込みは、必然的に道徳的で霊的な性質を与えることを言うことではない。創世紀2:7の言語は、他の生き物よりも何かより高いものを意味しているが、それは、この違いを神のかたちに造られた人間に言及することにおいてはるかにより明白に述べている創世紀1:26-27なのである。


 


Ⅱ.個人の霊魂の起源


 人間の霊魂の起源に関して3つの見解があった。最初のものは先在説(the pre-existence)、第2は霊魂遺伝説(the traducianism)、第3が創造説(


the creationalism)である。わたしたちは各々の論拠を概観しよう。しかしながら、聖書は、この主題について直接語っていないことが注目されるべきである。これが、疑いもなく、この主題について、神学者たちの間で、大きな程度の不確かさ(the large measure of uncertainty)を説明する。その主題の歴史は興味深い。オリゲネス(Origen:185-254)は、個人の霊魂の先在(the pre-existence)を主張した唯一の神学者であった。彼は、これをプラトンの霊魂の輪廻(the transmigration of soul)の教理から借用したと思われる。テリトリヌアス(Tertullian)は、霊魂遺伝説(the traducianism)、すなわち、霊魂は人間の両親による生殖行為において体と共に生じるということを表明した最初の神学者であった。この見解は次第に西方(the West)に受け入れられた。他方、東方(the East)は創造説(the creationalism)に向かった。アウグスチヌス(Augustine)は、創造説を受け入れるのを躊躇したが、しかし、霊魂遺伝説に強く賛同もしなかった(Warfield.,Studies in Tertullian and Augustine:New York:Oxford University Press,1930)。そして、アウグスチヌスは言った。「知的な霊魂が誕生の仕方によって遺伝されると言うことは異教的である」(As cited in Berkhof,SystematicTheology,op.cit.p.196)。宗教改革以来、プロテスタントはこの主題において分かれた。ルターは霊魂遺伝説に賛同し、カルヴァンは創造説に賛同した。一般的に言えば、この事柄により少ししか解決を見ていないより多くの最近の改革派神学者たちがいるが、ルター派はルターに従い、改革派神学者たちはカルヴァンに従った。たとえば、J.オリヴァー・ブスエル(J.OliverBuswelと同様にジョナサン・エドワード(Jonathan Edwards)は霊魂遺伝説に従った。ダブネー(Dabney)は、わたしたちが答えることできない謎(a mystery)であると感じた。近代のオランダ学派(the modern Dutch School)は、人間の統一性を強調して創造説を拒否するが、しかし、伝統的な創造説を採らない。彼らにとって、それは謎である。


 


A.  先在説


個人の霊魂は先在していた(pre-existed)という理念は、オリゲネスにより3世紀に主張された。わたしたちがすでに忠目してきたように、彼はこの理念をプラトンから借用した。この理論は決して多くの擁護者たちを持たなかった。スコートゥス・エリゲナ(Scotus Erignea)とユリウス・ミラー(Jurius Miller)は、「罪についてのキリスト教教理」(The Christian Doctrine of Sin)において先在説に反対した。近代においては、神智学者たち(the theosophists)と他の分派(cults)はこの教理を主張する。オックスフォードのシラー(F.C.Schiller of Oxford)とケンブリッジのテンナント(F.R.Tennant)もこれを主張した。しかしながら、一般的に言えば、先在説はどの正統派の神学者たちによっても主張されなかった。


 


この理論に反対して幾つかの論拠が挙げられる。


1.それに対する聖書的な証拠がない。


それは、異教的な二元論に基づいていて、霊魂を人間の本質として、そして、こうして、体を霊魂のための牢獄としてしまう、あるいは、体を人間にとって偶然的なものとしてしまう。人間は体なしで完結してしまう。


2.それは、人間の統一性を破壊する。というのは、霊魂はすべて先在的で、わたしたちの最初の両親から生じたものではない何かである。天使たちと同様に、霊魂は個人的被造物であり、種ではない(not a race)


3.人間の意識において、この見解に対する支持がない。人間は先在の記憶がない。また、人間は体が霊魂の牢獄であると感じていない。むしろ、人間は死、体と霊魂の分離を恐れる(コリント二5:4)。


 


B.霊魂遺伝説


 個人の霊魂は、生殖の行為を通して体とともに伝播されるという理念が、多くの神学者たちによって主張されてきた。古代教会においては、テルトリヌアス(Tertullian)、ルフィヌス(Rufinus)、アポリナリウス(Apolinarius)、ニッサのグレゴリウス(Gregory of Nyssa)がこの見解を主張した。アウグスチヌスは、これに傾いていて、教皇レオ(Leo the Great)は、それを公同的信仰の教え(a teaching of catholic faith)と呼んだ。中世においては、それは創造説に道を譲った。ルターはこれを採用し、多くのルター派の人々はそれを主張した。改革派においては、エドワード・ジョナサン(Edwards Jonathan)とブスエル(Buswell)、H.B.スミス(H.B.Smith)、H.ストロング(H.Strong)、ゴードン・H.クラーク(Gordon H.Clark)がこれを支持した。


 


この理論を支持する根拠は、


1.創造についての創世紀の説明はそれを支持すると言われる。アダムは自分の霊魂を神の吹き込み(創世紀2:7)によって受けたが、しかし、エバとの関連において霊魂についての新しい言及はない(創世紀2:23)。


2.神は人間を創造した後、御自分の創造的活動を停止した(創世紀2:2)。子孫たちは、先祖たちの腰にいたものとして描かれている(創世紀46:26、ヘブライ7:9-10)。


3.ある特性が子どもたちに受け継がれるという事実は、子どもたちは、両親から人格性の座である霊魂を得ることを意味する。霊魂遺伝説は、道徳的で霊的な腐敗に対する最善の説明である。


 


霊魂遺伝説に反対する多くの論拠


1.単一で、そして、こうして、区分できないものとしての霊魂の性質についての哲学的な問題は、霊魂の増殖(propagation)に対する説明に難しさをもたらす。また、霊魂は父からか母からか、あるいは、2人の結びつきの何かであるかの問題もある。もし、これが肉体的な種(the physical seed)に起源するならば、そのとき、これは唯物論に導く。


2.神が創造的に行為することを停止という理念は、神がわたしたちのために新しい心を造るということを主張する再生の教理に十分一致しない。


3.もし、罪の伝達の現実主義的見解(a realistic view of the transmission of sin)と結びつくならば、そのとき、受肉との困難がある。というのは、もし、わたしたちが、アダムにおいてそこで罪を犯したならば、そのとき、アダムの子孫のキリストもアダムにおいて罪を犯したに違いないのであり、アダムと共に有罪となってしまう。


 


B.創造説


創造説は、各個人の霊魂は神により直接に(immediately)創造されたと主張する。神の直接的な創造として霊魂は純粋であったに違いないが、しかし、それは、その後、堕落した体に結ばれ、そして、こうして、罪の腐敗に結びつく(contracts)。


 


創造説を支持する論拠


1. 聖書的な章句はこの見解を支持するように思える。


 民数記16:22「彼らはひれ伏して言った。『神よ、すべて肉なるものに霊を与えられる神よ。あなたは、一人が罪を犯すと、共同体全体に怒りを下されるのですか』」。


 詩編33:15「人の心をすべて造られた主は/彼らの業をことごとく見分けられる」。


 イザヤ57:16「わたしは、とこしえに責めるものではない。永遠に怒りを燃やすものでもない。霊がわたしの前で弱り果てることがないように/わたしの造った命ある者が」。


 エレミヤ38:16「ゼデキヤ王はエレミヤにひそかに誓って言った。『我々の命を造られた主にかけて誓う。わたしはあなたを決して殺さない。またあなたの命をねらっている人々に引き渡したりはしない』」。


ゼカリヤ12:1「託宣。イスラエルに対する主の言葉。天を広げ、地の基を置き、人の霊をその内に造られる主は言われる」。


2.それは、2つの実体が区別され、また、それゆえ、異なった起源を持つものとして、体と霊魂としての人間についての聖書的な表明と一致する(コヘレトの言葉12:7,イザヤ42:5,ゼカリヤ12:1,ヘブライ12:9)。。


3.それは、霊魂は生来目に見えないことを主張するところの哲学的な点からも、より維持できる。


4.それは、受肉とキリスト論との問題を避けられる。 


 


創造説への反対


1.最も効果的な論拠は、罪と霊魂の関係の論拠である。もし、神が堕落性を伴った霊魂(the soul with depravity)を創造したのであれば、そのとき、神が罪の創造者となってしまう。もし、他方、神が堕落した体に純粋な霊魂を置くのであれば、神は道徳的な悪の作者となってしまう。


2.それは、人格的な特性を子どもに伝達することについての説明に失敗する。この見解の下では、両親は体だけを生じさせ、霊魂を、そして、こうして、子どもの人格性を伝達しないことになる。


3.それは、創世紀2:2に反して、神の創造的活動が継続しないことを前提してしまう。


4.創造説に有利な諸節(verses)は、排他的ではない。何故なら、それらは直接的創造を明確に述べていない(not specify)からである。それは、人間の両親を通しての第二次的な創造にも言及し得るからである(注:これらの論拠のほとんどはベルコフの「組織神学」(Systematic Theology)における彼の扱いから生じている)。


 


  ダブネー(Dabney)は、両方の見解に対する種々の論拠を熟慮した後で、むしろ賢明な考察をする。彼は言う。「今や、霊的な実体について、知覚による真の認識を持たないが、しかし、その行為と効果を知るだけであるから、わたしたちはその産出についての正確な働きについて、また、その働きが行為する仕方についても、知らないことに驚くべきではない」(Systematic Theology,op.cit.p.320-321)。彼はさらに言う。「この解けない疑問は偉大な真理をわたしたちに再度教えようとしていないであろうか。それをわたしたちは理解するのに不適なのである。無限の御霊において、また、有限からの人間の霊魂の生成において、御言葉についての永遠の生成において例に挙げられた霊的生成としてのそのような現実性があるのである(there is a reality as spiritual generation instanced in the eternal generation of the Word,in the infinite Spirit,in the generation of human souls from the infinite)(Systematic Theology,op.cit.p.320-321)。


 ドーイウェールド(Dooyweerd)とベルクーワ(Berkouwer)によって代表されるオランダ学派(the Dutch School)は、創造説と霊魂遺伝説の両方を、人間についての二元論的概念に基づくものとして拒否している。この学派は、「全人」(the whole man)の理念を強調し、体と霊魂の分離した本質あるいは実体(separate substance or entities)でないことを主張する。ベルクーワは言う。「聖書の証拠は、わたしたちが心の中にこだまを呼び起こすところの聖書的な証言の疑わしさをここで実際に本当に持っているか否かという最も重大な疑問を生じさせないことは残念である。というのは、それが人間の起源の問題が霊魂の起源の問題に置き換えられたところの反省の型の限界の認識(the recognition of the limit of the type of reflection)


に導いたまさに聖書の権威の強調である。そして、わたしたちは、全人の起源に関する聖書的な証言が理解され、明らかなジレンマの重大さが消失しようとし、また、わたしたちが、全人についての意識が神との神秘的な関係においてこの歴史的ジレンマを超えていく道を開く程度において(in measure)驚く必要がないのである。この光において、アウグスチヌスの継続する躊躇がキリスト教思想の歴史において意義深いものとなるのである」(Idem.)。


 二つの分離できる実体(two separable entities)はないという理念についてのオランダ学派に対して十分には同意することなしに、しかしながら、これら言及の趣旨(the thrust)には妥当性があると思える。聖書は、この主題について真に明白ではない。それは謎にあり、また、そのような場合には余りにもドグマチックにならないことが最善なのである。


 


 


解説


 


「第16章:人間の創造」についての紹介が終わったので5点の解説をする。まず第1点は、人間の創造についてのスミスの扱い方についてである。人間の創造と言うと、わたしたちはすぐに神のかたちに造られた人間を考え、神のかたちの意味や内容は何かということに思いが向くが、神のかたちの意味や内容は何かということについては、スミスは次の章の「第17章:神のかたち」において詳論するので、本章においては、そこまでは入らない。


第2点は、人間の創造は、人間とは何かという主題であるが、この問題を扱うには難しさがあることをスミスは、ベルクーワを引用して語る。すなわち、人間は何かという問いを発するとき、その問いを発するのも人間自身である。それゆえ、どれだけ客観的にこの問いを扱えるかという難しさがある。また、人間を知ることは、自分自身を知ることなので、自分自身のことを知ることなしに、純粋に客観的に扱うことは難しい。さらに、人間の心は罪ゆえに何ものにまさって欺くので、どこまで正しく人間を、また自分自身を探究できるかは難しい。そこで、スミスは、神の言葉である聖書、神の特別啓示である神の権威のある聖書によって、自分自身を含めて人間とは何かを知り、教えられることが決定的に重要であることをまず語る。


第3点は、人間の起源について教えている創世記の2個所の意味についてであるが、まず創世記1:1-2:3についてである。「・・・」。この個所には書き方の幾つかの特色がある。人間の創造のための準備として、人間が生きていく環境造りが1日毎に進んで行く。そして、人間の創造は創造のクライマックス、頂点、創造の冠として描かれている。人間以外のものの創造のときの神の言葉は、「神は言われた・・・せよ」という神の命令という定式によって次々と創造された。しかし、人間の場合だけ、神は「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」と言ったが、スミスはこれを神は協議(あるいは相談)(英語では(consultation)を始めた」と解説した。そして、さらに、スミスはドイツの旧約学者のデリッチを引用して、神は人間を創造するとき、ヘブライ語でברא:bara:バーラーという言葉を何と3回も繰り返して、神によって造られる人間は他のあらゆるものと類似や類比がまったくないユニークなもの、独自なものであることを強調していることをスミスは語る。ヘブライ語のברא:bara:バーラーは、ヘブライ語のキャル形では神にしか使われない言葉である。バーラーされた、バーラーされた、


バーラーされたと3回も繰り返されていることは、人間が本当に神によって創造されたこと強調していることがわかる。わたしたち人間は本当に神によって創造されて、生きているのである。人間の起源は本当に神による創造なのである。これ以外にわたしたち人間の起源はないのである。


第4点は、創世紀2:7の意味についてである。「・・・」。創世紀2章は、人間の創造の第2の説明であり、第1章の第1の説明と矛盾しないことをスミスは語る。1章の説明も2章の説明も、他の何かが中心ではなく、人間の創造が中心であり、創造の頂点、冠とされている。そして、特に、スミスが注目していることは、神により鼻に「命の息」が吹き込まれたことの意味についてである。この「命の息」は、これまでしばしば「霊魂」と理解されてきた。すなわち、神は土の塵で人間の体を造り、その後、鼻から「霊魂」を吹き込み、これで体と「霊魂」からなる人間となったと理解してきた。


しかし、スミスは、それは誤解であり、「命の息」は、「霊魂」でなく、「生気」(any animation))であると言う。英語で animationというのは日本語に的確に訳すのが難しいが、簡単に言えば、「命」のことであろう。すなわち、人間の体は、土の塵から造られたが、しかし、体のかたちはあっても命がまだなかったので、生きる者ではなかったのである。そこで、神が鼻からanimation 、すなわち、生気、簡単に言えば、命を与えたので、はじめてそのとき人間は生きる者となったという理解である。そして、興味深いのは、「生きる者」となったの「生きる者」という言葉は、人間だけに使われているのでなくて、1章20節で「生き者が水の中に群がれ」の「生き者」、また、1章24節の「地は、それぞれ生き者を産み出せ」の「生き者」とヘブライ語が、まったく同じなのである。それゆえ、水の中の魚も、地の獣も、そして、人間も神から命を与えられて「生きる者」となったことを意味しているとスミスは語る。わたし(佐々木稔)も、スミスの理解は正しいと思う。


第4点は、霊魂の起源についてである。スミスは、霊魂がいつどのようにして生じるのかについての啓示はないが、神学の歴史を見れば、霊魂の起源について3つの見解が生じたことを語る。まず霊魂先在説である。この説によれば、人間の霊魂は天上においてすでに存在していてあるとき一人一人の体に宿ると考える。しかし、この説は3世紀の教父のオリゲネスが唱えたもので、正統的な神学者でこの説に賛同する者はいなかった。また、この説は、プラトンの体と霊魂の二元論を借用した説で、霊魂を尊び、体は霊魂の牢獄か偶然的なものと低く見てしまう。この説は聖書の根拠がまったくない。


次いで、霊魂遺伝説である。この説は、霊魂は両親から生まれるとき、体と共に両親から遺伝によって受け継ぐと考える。教会の初期においてはテルトリヌアス(155-240)がこの説を受け入れた。最大の教会教父のアウグスチヌス(354-430)もこの説に傾いた。宗教改革期においてはルターとルター派がこの説を受け入れた。改革派では、アメリカの長老派のニューヨークのユニオン神学校の組織神学教授のH.B.スミス(1815-1877)、ヴァン ティルと他の問題で論争したゴードン・H.クラーク(1902-1985)などがこの説を受け入れた。アメリカのバプテスト派の神学者のH.ストロング(1836-1921)もこの説を受け入れた。この説は、霊魂が両親からの遺伝によって自然的に伝播すると考えるが、もし、そうなら神の創造的な行為が停止していることを意味し、神が新しい心を再創造するという創造的行為の継続と一致しないことになってしまう。


さらに、霊魂創造説がある。創造説は、各個人の霊魂は神により直接に創造されると考える。しかし、最初の人間のアダムとエバの創造においては、神が直接的にアダムとエバに霊魂を創造したので、その場合の霊魂は罪がない霊魂を創造したに違いないが、アダムとエヴァが罪を犯し、全人類が罪人になったとき、罪人の霊魂も罪の影響を受けた霊魂をなっているが、神は罪の影響を受けた霊魂を各人において創造したのかという大きな問題が生じる。


こうして、スミスは霊魂の起源について3つの説を紹介するが、どの説にも問題があることを語り、霊魂の起源は聖書の啓示がないので、起源について、余りにもドグマテックになることを避けるのが賢明としている。わたしもそう思う。霊魂がいつどのようにして起源するかについては、神が啓示していないので、不明である。ただし、歴史的には3つの説があることを理解しておけばよいことと思う。


第5点は、オランダのドーイウェールドやベルクーワの「全人」の強調についてである。彼らは、創造説も霊魂遺伝説も、人間についてのギリシャの二元論的概念に基づくものとして拒否する。すなわち、体と霊魂の分離できる二つの実体・本質であることを拒否して、統一体としての「全人」を強調する。確かに、ギリシャ思想の影響を強く受けているヨーロッパにおいては、ギリシャの二元論が信仰に入り込んでくることには絶対に拒否し、否定しなければならないことは十分理解できる。しかし、主イエス・キリストが言う意味において、聖書が言う意味において、人間は体と霊魂でできている、成り立っている、成立しているということは問題にならないであろう。主イエス・キリストは、マタイ10:28で「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と言って、人間は体と魂(霊魂)で成立していることを語っている。また、ヤコブ2:26で「魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです」と言われて、人間が体と魂(霊魂)で成立していること語っている。また、黙示録6:9においては「小羊が第五の封印を開いたとき、神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された人々の魂を、わたしは祭壇の下に見た」と言われて、体を離れた魂(霊魂)が神の祭壇のそばにいると語られている。それゆえ、主イエス・キリストが言う意味において、聖書が言う意味において、人間は体と霊魂でできている、成り立っている、成立しているということは問題にならないであろう。実際、日本の牧師たちは、人間は体と霊魂でできているとしょっちゅう説教しているであろう。わたしもしている。もちろん、日本でもギリシャの二元論が信仰に入り込むことには十分警戒しなければならないが、主イエス・キリストが言う意味において、聖書が言う意味において語ることには問題はないであろう。わたしはこれからも人間は体と霊魂でできていると確信をもって説教していく。わたしはベルクーワ先生から非常に多くのことを学んでいるが、人間の創造に関しては異なるところがある。あってよいと思う。


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