義認 

     

1. 聖書の用語

A.  旧約聖書


 


 義とするを表すヘブライ語の語根は、צדק:tsadaq:ツァザークである、単純活動形(Qal)、強意形(Piel)、原因形(Hiphil)の語幹(stems)についての旧約聖書の使用法は、意味の幾つかの多様性を示す。最初に、状態的な理念(the stative idea)がある(創世記38:26.ヨブ4:17を見よ)。すなわち、義であることの状態がこの用語によって描かれる。第2に、証明的な使用法(a demondtrative usage)があり、そこにおいて人が義であることが証明される(エゼキエル16:51-52を見よ)。第3に、原因的な使用法(a causative usage)


の幾つかの稀な使用法がある(ダニエル8:14、12:3を見よ)。第4に、最も頻繁な、また、最も重要な使用法は、法的なあるいは宣言的な使用法(the forensic or declarative usage)である(法的な使用法の例は、出エジプト23:7、申命記25:1、列王上8:32、ヨブ32:2、箴言17:15、イザヤ50:8、53:11)。


 法的な意味におけるこの圧倒的な使用法の重要性は、義認の原因的な理念の擁護があるということが見いだされるときに、見られるのである。ローマ・カトリック神学と贖いの道徳的影響論(moral influence theories)(エディンバラのジョン・ヤング:John Young of Edinburgh、ホラス・ブシュネル:Horace Bushnell、一神論者:Unitarians)は、法的な理念(the legal or forensic idea)を否定し、義認の適切な理解として原因的な意味を防御した。これに答えて、聖書自身は幾つかの方法で法的な意味を指摘していることが考察されるべきである。


 最初に、義認は定罪と対照的に置かれるという事実である。「二人の間に争いが生じ、彼らが法廷に出頭するならば、正しい者を無罪とし、悪い者を有罪とする判決が下されねばならない」(申命記25:1)。罪に定めることは、人を有罪にしないことであり、むしろ、人が有罪であることが見い出されることを宣言するであるから、義とすることは、義の宣言(the declaration of righteousness)に言及し、義とすることに言及するのではない(not causing righteousness)。同様の使用法が箴言17:15に見られる。「 悪い者を正しいとすることも/正しい人を悪いとすることも/ともに、主のいとわれることである」。確かに、もし、人が悪い者を正しいとするならば、それは主のいとわれることである。他方、もし、宣言的意味に取られるならば、そのとき、この個所は良い意味を成す(make good sense)。再び、義認と定罪は相互に反対となる(イザヤ5:23を見よ)。


 第2の個所のグループは、審判の文脈における義認を置き、それは、再び、法的意味を指摘していて、原因的な意味(a causative meaning)を指摘していない。「あなたの僕を裁きにかけないでください。御前に正しいと認められる(justified)者は/命あるものの中にはいません者」(詩編143:2、創世記、18:25も見よ)。


 第3に、法的であって、原因的でないことの意味を表すところの等しい表現がある。創世記15:6、詩編32:1-2。


 第4に、「義と宣言すること」(declaring righteous)以上のことを意味するであろうところのイザヤ53:11などのような個所がある。「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか」。ここには、義とする(justify)という用語は、僕が作り出したところの状況の変化を反映する。それは、義とすることや聖とすることを意味するのではなく、彼らは「彼が彼らの罪を負った」ゆえに義として受け入れられることを意味する。ダニエル12:3は、「多くの者の救いとなった(turn may to righteousness)」ところの人々の行いを描くのに使われている。ここでさえも、それは法的な意味ではないが、それは、ほとんど他の者たちを義とする意味ではないのである。


 義とする(justify)という用語の旧約聖書の短い概観から、その言葉は、人を義として宣言するという司法的なあるいは法的な意味において優先的に使用されていて、人を義とするという原因的な意味ではないことが明らかと思える。


 


B.  新約聖書


 


わたしたちが、新約聖書に向くとき、わたしたちは、「義とする」(justify)という言葉はδικαιόω:dikaioo:ディカイオウであることを見い出す。この言葉は、旧約聖書において見い出されるצדק:Tsadaq:ツァダークの使用法の多様性を持たない。それは、2つの意味の影(two shades of meaning)を持つにすぎない。それらは、その用語の証明的な(demonstrative)意味と宣言的な(declarative)意味である。その理念は近く、また、ある場合には、他の意味に合わさる。その用語の証明的な使用法は、マタイ11:19、ルカ7:35である。「人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される」。すなわち、知恵が知恵としてそのはたらきにおいて証明されている。テモテ一3:16が読む。「信心の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、/キリストは肉において現れ、/“霊”において義とされ、/天使たちに見られ、/異邦人の間で宣べ伝えられ、/世界中で信じられ、/栄光のうちに上げられた」。ここには、わたしたちの主が、御自身の義を霊において証明したことが理解され得るのであるが、2つの意味のある合わさりがある。ヤコブ2:21は言う。「神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか」。わたしたちが、ヤコブが証明的な意味でその言葉を使っていることを思い起こすとき、他方、パウロはそれを宣言的な意味で使うが、わたしたちは、2つの間の推定される困難を解決できるのである。


 宣言的な使用法は、人が人を義として、宣言し、数え、判断することを意味する。ルカ7:29は読む。「民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもその洗礼を受け、神の正しさを認めた」。ここで、その理念は、人々が神を義としたり、あるいは、神を義と証明したりしているのではなく、彼らは神を義と宣言しているのである。再び、ルカ18:4において、わたしたちは読む。「裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない』」。ここでは、理念は、義として受け入れたという理念である。旧約聖書のケースにおいてのように、その用語の宣言的で、法的な意味が広く行き渡っていることが見られる。それは審判と結びついて使われていて、それは、義とすることを排除していようが、しかし、数えること(reckoning)の理念を担っている。旧約聖書においてのように、その使用法は、新約聖書において、定罪と対照的である。「この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです」(ローマ5:16)。「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」(ローマ8:33-34)。再び、原因的な意味ではなく、宣言的な意味に有利な意味であるところの相関関係がある。ローマ4章において、パウロは、罪人たちは義と数えられることを論じている。コリント二5:19-21は、わたしたちの和解と、「つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。 罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」ということを語っている。


 このことから、わたしたちは、新約聖書も、義とする(justify)という言葉を、原因的な意味ではなく、司法的な意味において使うことを見ることができる。神とのわたしたちの関係において、わたしたちは、定罪から自由なものとして御前に、また、神の義のすべての要求を満足させたものとして、見なされている。もし、根拠が人の道徳的な行動や性格であったとしてさえも、義認はなおも宣言的な行為なのである。わたしたちは、無罪におけるアダムについて語ることができよう、あるいは、義とされたキリストについて語ることができよう。そのようなものとして、わたしたちは、各人の義を宣言する(declare)であろうし、また、どのような方法でも各人を義とすることはしないであろう(not causing the righteousness)。


 


Ⅱ.わたしたちが、救済論的な義認について語るとき、わたしたちは、罪人たちの神の義認に言及しているのである。それは、罪人たちを義としての神の宣言であり、判決であり(adjudges)、数えること(reckoning)である。神の場合には、それは他のすべての場合においてそうあるべきように、御自身の義認は真理と常に一致する。もし、神が人を義と宣告する(adjudges)ならば、そのとき、義とされていることが宣言において前提されている。不信心な者の場合はどうであろうか。不信心で定罪下にある者たちを、如何にして、神が義として宣言できるのか。定罪と義認は両立しない、特に神の審判においては両立しない。人は義として宣告される(adjudged)ところの神の宣言は、それゆえ、認定的行為を(a constitutive act)前提し、あるいは、その内に認定的行為を包含する。


 「人間の裁判官の判決は、単に宣言的にすぎない(merely declarative)。それは、人間を無罪にするか有罪にするかを制定しない(does not constitute)。それは、彼を法の目において彼をそのように宣言するにすぎない。それは誤りかもしれない。また、真に有罪の人を無罪と宣告するかもしれない。そして、他の人を有罪と宣告するかもしれない。他方、罪人を義認することにおいては、人間の裁判官が誰もできないことをする―神は、最初に、彼を義と見なす(constitutes)。彼は、以前は義ではなかったが、それから、御自身の無謬の判断において、彼を義と宣言する、それは真理によってである」(James Buchanan,The Doctrine of Justification:


Grand Rapids:Beker Book House,1955 p.234)。


 何が認定的な行為(the constitutive act)なのか。それは、神御自身との新しい司法的な関係にあり、その結果、宣言を真実とするところの変化が起こるのである。


 わたしたちが聖書を吟味したとき、わたしたちは、それは、義認で義の転嫁を罪人に結びつける(ローマ4章、5:19、ガラテヤ3:6)。それゆえ、わたしたちは、救済的な義認においては、義認についての人間のケースに適用しない何かがある。神は、罪人を義とされた者と宣言するだけでなく、神は彼を義と認定する(constitutes)。わたしたちは、再生に存するものとしての認定的な行為を認識しないということが重要である。認定的な行為が起こるのは、まったく法的な領域においてである。それは、転嫁の行為に存し、それは、今度は、宣言されるべき、また、存するものとして数えられるところの関係をもたらすのである。


 


A.義認の根拠


 


 わたしたちがここで扱っている疑問は、司法的な根拠となる不信心な者たちの勘定に数えられるところの義とは、何かである。何の根拠に基づいて、神は、律法と正義の要求が満足させられたと宣言するのか。何の義が、神にそのように宣言することを可能にするのか。


 


1.それは、わたしたちの内において生じた、あるいは、作り出された義ではない


 


 注入された義(an infused righteousness)、それは、神の恵みによってわたしたちの内に生じたところのものであるが、それが完全であり、また、それがすべての罪を根絶して、わたしたちをキリストのかたちに完全に一致させることに関していたとしてさえも、十分な義認の要求を満たさないであろう。それは、過去の罪と不義を処理することにおいて、十分な義認の要求に不十分である。義認は、罪の赦しを包含する。それは、すべての定罪の除去を包含する。こうして、罪人たちに転嫁された義は、将来に対する保証と同様に過去の罪の赦しにも配慮するのに適切な義であらねばならない。


 


2.それは、わたしたちによって作り出された義ではない


 


 聖書は誰も律法の行いによって義とされないことを明らかに断言している(ローマ3:20、4:2、ガラテヤ2:16、3:11、5:4、ローマ10:3-4、フィリピ3:9、テトス3:5)。わたしたちの行いは、どこにおいても、神の御前で義としないのである。


 


3.わたしたちは、神の恵みによって義とされる


 


 わたしたちが神の恵みを語るとき、わたしたちは、神の功なくして得た愛顧(the unmerited favor)を語るのである。すなわち、わたしたちの内には、神からの報いを引き出すもの何もないのである。救いの恵みは、神の保証のない愛顧から出ているのである。それゆえ、わたしたちの義認の根拠は、完全に、わたしたち自身の外側に、また、わたしたちの行いの外側にあるのである。


 


4.より特別には、わたしたちが義とされるには、キリストにおいてである


 


 わたしたちが義とされるには、キリストにおいてであるという一般的な教えは、使徒言行禄13:39、ローマ8:1、コリント一6:11、ガラテヤ2:17などのような個所に見い出される。わたしたちが、さらに、聖書の表明を考察するとき、わたしたちは、わたしたちが義とされるのは神の義によること(ローマ1:17、3:21-22、10:3、フィリピ3:9)であることを見る、また、この義は、より特別に、キリストの従順(ローマ5:17-19)と彼の犠牲的で贖罪的なみわざ(ローマ3:24-25、5:9.6:7.8:33-34)と同一視される。このすべてのことから、わたしたちは、義認の根拠はわたしたちにあるのではなく、キリストによるわたしたちのためになされた義にあることを結論するのである。罪人に転嫁されるのは、この義であり、すなわち、わたしたちの勘定に数えられるのである。神の律法への罪人への新しい関係を構成するのは、そして、罪人への義認における神の宣言的な行為の基礎となるのは、罪人へのキリストのみわざのこの転嫁である。


 


C.  義認の手段(instrument)


 


 わたしたちの研究において、この点まで、わたしたちは、義認の客観的な局面、神の行為を提示してきた。今や、わたしたちは、義認の行為は、あるいは、わたしたちの側の何の活動に関わりなく起こるかどうかを問わねばならない。それはわたしたちの何かの活動に関係しているのか。義認の救いの秩序(ordo salutis)における適切な場所は何か。


 聖書は、信仰による義認を語る。それは、「信仰ゆえの」(on account of faith: δια την πίστιν:dia ten pistin:ディア テン ピスティン)義認を決して語らない。信仰は義認の根拠ではない。表現の次の形態が使用される。「信仰によって」(through faith: δια πίστεως:dia pisteos:ディア ピステオス)、「信仰によって」(of faith: εκ πίστεως:ek pisteos:エク ピステオス、「信仰によって」(by faith: επι τη πίστει:epi te pistei)である。聖書の表明によって、義認はわたしたちの信仰に関係している。さらに、信仰は、義認の結果ではなく、先行する手段である。義認の神的行為に不可欠な信仰によって行使されるある種の手段性(some sort of instrumentality)がある。不信心な者を義認するのは神である。信仰の効果性(efficiency)の性質についての疑問が挙げられる。


 ローマは、洗礼から出る信仰は、単なる承認(bare assent)であると言う。それは、最初の義認の機会的な原因(the occasional cause)であり、洗礼は最初の義認の手段的な原因(the instrumental cause)である。それゆえ、最初の義認が起こった後で、恵みの注入(an infusion)、義の注入があり、そして、今や、信仰が愛で特徴づけられる(informed)。この「同意的信仰」(Fides informis:uninformed faith)のゆえに、人は功績的な善行が可能となる。この功績は、第2の義認の根拠となる。こうして、ローマは、洗礼は第1の義認の手段的な根拠であり、他方、行いは第2の義認の根拠なのである。


 レモンストラント・アルミニアンの枠組(the Remonstrant-Arminian scheme)は、福音的従順(evangelical obedience)と結びついた信仰は義認の根拠であると主張する。すなわち、それは、神を受け入れるわたしたちの根拠である。


  プロテスタントの一般的な立場は、信仰は義認の手段である。それは、それによってわたしたちが神から提供された恵みをつかむところのものである。わたしたちが、わたしたちの義認の根拠は、キリストの義であることまた、救いに至る信仰の優先的な行為の性質は、自分から目をそらし、救いのためにキリストにのみ依拠することであることを思い起すとき、わたしたちはこれらの2つが共に適合する(fit together)。わたしたちが神の義認の祝福を受けて神との関係に入るのは・・・義がわたしたちの勘定に数えられ、そして、神の御前にわたしたちが義と宣言されるのは、わたしたちがキリストと彼の義に完全に依拠するときである。わたしたちをキリストとのこの関係に入れるのは、この信頼的で依拠的な信仰だけなのである。


 


D.  信仰義認と善き行いの関係


 


 善き行いと信仰にのみによる義認との関係についての疑問は、義認と聖化の関係の疑問である。信仰による義認は締まりのない生き方を助長することが示唆されてきた。パウロは、この議論をローマ6章から7章において論じている。この非難に答えるために、義認についての適切な理解を持つことと義認を適切な焦点に保つことが必要である。


 


1.贖い(redemption)の究極のゴールは、罪人がキリストのかたちに一致することである。このことが思い起されるとき、そのとき、義認は救いの全体ではないことが理解される。義認は、全過程の一つのステップにすぎないのである。


 


2.義認は、善き行いの唯一の基礎である。善き行いは、聖書の教えに一致し、それは聖さと義しさにおいてなされるころのそれらの行いである。わたしたちが、わたしたちの罪によって神から離れていて、また、こうして、神の怒りと呪いの下にあるかぎりは、神に仕えることは不可能である。この神からの疎遠(alienation)を取り除くのが義認である。神との平和が樹立されるのは、義認によってである(ローマ5:1.この平和は、どの善き行いの必要条件である。罪責の感覚と疎遠の感覚は奉仕をつまらなく思わせる(stultifying)。神によって拒否された後のサウル王の生涯が証言である。恵みによる義認は、他のものではなく、信心深い生活を励ますところの心の平安をもたらすのである。


 


3.義認するところの信仰は、罪からの救いのため、キリストへの信頼以外の何ものでもない。それゆえ、この信仰は、罪を憎み、定罪し、非難する原則である。すなわち、この信仰の動機づけの原則は、救いのため、罪からキリストへの方向転換なのである。こうして、信仰の行使が倫理的な生活に限定されることを示唆することは、この信仰のまさに性質に矛盾するであろう。信仰は、救いのために、それ自身が罪からキリストへの方向転換であるとき、如何にして、そのような信仰が罪を犯す気になり得るだろうか。


 


4.真の救いの信仰は、愛において自ら働く。これがヤコブの趣旨である。「信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。


 2:18 しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう」(ヤコブ2:17-18)。ヤコブは、行いのために信仰を非難しているのではない。しかしながら、彼は、真の信仰は、行いにおいて自らを現わすことを主張している。行いは信仰の実である。人間は信じるところのことを人間は行おうとするのである。


 


5.如何にして、わたしたちは、信仰によって義認され、また、とはいえ、わたしたちは行いに基づいて報われると言われることに関して、疑問が起こる。ここでの原則は、信仰においてなされた行いは、愛の動機から出て、また、神の啓示された意志への従順から出たところのものである。それらは神の栄光に向けられている。そのような行いは、本来的に善である。これらは、報いに基づく行いである。聖書は、そのような行いは、来るべき世において報いられるのである(マタイ10:41、コリント一3:8-15、4:5、コリント二5:10、テモテ二4:7-8)。


 わたしたちが善き行いに基づいて報われる事実は、わたしたちが神の恵みによって義認されることを如何なる方法でも取り去ったりはしないのである。聖書は、わたしたちの救いをこれらの善き行いに依拠させてはいないが、しかし、それらは救いの上に(over and above salvation)報いをもたらすのである。行いによる報いは、人が神の終末論的な御国において占めるところの相対的な条件に関係する。報いは、神によって恩恵的に与えられる。というのは、神は、わたしたちに善き行いを可能にするお方であり、また、神の栄光への愛によって動機づけられた行いにおいて、本来的な善があるので、その結果、これらの行いの功績的な局面がある。報いの認識は、善き行いへの適切な動機づけなのである。信者は、神について自分のより十分な享受のために、自分が神のためにますます自分の生涯を生きるべきである。善き行いは、クリスチャン・ライフの一部であらねばならない。何故なら、単なる救いは贖罪の過程のゴールではなく自分の日常の生活なのである。


 


E.  義認と聖化の対照


 


義認                  聖化


 


1.罪責を除き、義として受け入れる   腐敗を除き、罪人をキリストのかたちに一致して新しくする


 


2. 罪人の外側で起こり、神の法廷に   信者の内側で起こり、全人に影響を与    


おいて。それは内的生命の変化で   える


はない


                  


3.一回限りの行為で、進展はない    継続的な過程、この世において終わることがない


 


4.功績的原因はキリスト、       功績的原因はキリスト


  父なる神が罪人を義と宣言する    神と聖霊が信者を聖化する


 


 


F.  ローマ・カトリックの義認の教理を吟味する


 


宗教改革の主な問題は、義認の教理であったので、この主題についてのローマ・カトリックの見解を吟味することは重要である。基本的な枠組みは、次のように要約される。


 義認の最後的な原因は、神の栄光である


 効果因(the efficient cause)は、神の恵みである


 功績因(the meritorious cause)は、キリストの義の功績(the

righteousness of Christ)である


機会因(the occasional cause)は、信仰である


正式因(the formal cause)は、義の注入(the infusion of righteousness)である


手段因(the instrumental cause)は、洗礼である


 


1.キリストの功績は、ローマによって、義認の功績因であると言われる。このことは、 キリストの義は、神がわたしたちを義と宣言するために、わたしたちに転嫁されるところのものと教える聖書の見解と同じではない。むしろ、ローマは、キリストの功績は、人間のために、聖霊の賜物を確保する。その聖霊の力によって、洗礼の礼典において、霊魂が聖くされることを教える。


 


2.ローマによれば、機会因は信仰である。そのようなものとして、信仰は、傾向を与える原因(the predisposing cause)であり、それは、罪人が義認(再生)を求めるように導き、そして、神が祝福を与えるようにする。信仰は、単に同意(simply assent)であり、また、そのように信じる者が洗礼を求め、また、こうして、神の恵みを求める。


3,ローマによれば、義認の正式な原因(the formal cause)は注入された義(infused righteousness)である。霊魂は、聖霊の働きにより、洗礼を通して聖くされる。注入された義は、罪の性質を追放し、罪人の善き行いをすることを可能にする。義の注入は、ローマが義認として定義するものであり、わたしたちを義として受け入れたこを宣言する法的行為ではない。


 


4.洗礼は、ローマの見解においては、手段的な原因(the instrumental cause)である。洗礼は、それによって恵みが罪人に与えられる手段と考えられる。


 


5.注入された恵みにおいて、人は善き行いをすることが可能になり、そして、その中に堅忍する者たちのために、恵みの増加と永遠の命の獲得を功績として得させる。こうして、義認は、ローマによって性格において進展的(progressive)と考えられる。第2に、義認は、本人がまったく聖化されるまでは、完全ではない。十分な償いがなされるまではこの世においてもあるいは煉獄においても、一時的な罰を受ける。というのは、洗礼後のすべての罪に対して、人は、十分に義とされるのである。人が煉獄から解放されるときにのみ、彼は十分な義認を持つのである。


 


G.  ローマの立場批判


 


 義認についてのローマの見解の基本的な諸理念を見たので、非聖書的として次の批判点を記そう。


 


1.ローマは、法的行為としての義認の聖書的な理念を拒否する。義認と聖化の混同がある。その中においては、義認は過程である。その結果は、義認の事実上の削除である。


 


2.義認の聖書的な根拠が無視されている。ローマ・カトリックは、キリストの義が、義認において転嫁される義であるという教理を強調して拒否する。キリストの義は恵みを獲得することと言われるが、しかし、キリストの義それ自身は転嫁されない。これは、明らかに、ローマ5:17-19の反する。


 


3.ローマは、信仰を相対的に重要でないものに格下げする(relegates)。このことは、特に、義認との結びつきにおいて、信仰の聖書的な強調に確実に反する。


 


4.ローマは、救いの手段的な原因として、洗礼を信仰の代わりに使う。


 


5.義認は一度限りの神の行為であるという聖書の教えの拒否し、そして、進展的義認を代わりとすることは、ローマの別の誤りである。


 


6.功績に関するローマの教えは、律法の行いによっては、誰も義認されないという聖書の教えと食い違う。ローマによれば、善き行いは恵みを増し、また、永遠の命を得させるのである。


 


7.ローマは、義認は、不信仰によって、あるいは、死に至る罪によって失われ得ると教える。こうして、神が義認する者たちを神は栄光化もすることを主張できない。


 


 これらのすべての点は、トリエント会議においてローマにより明らかに表明されたことに注目せよ。如何に、ローマは、そのように図々しく反聖書的である。


 


 


解説


 


 「第32章:義認」の紹介が終わったので、6点の解説を記す。まず第1点は、流れの確認である。スミスは、キリストのみわざが聖霊の働きによって罪人に適用される過程として召命と再生、回心:悔い改めと信仰を扱ったので、今度は、義認を扱う。すなわち、罪人は、福音の宣教において救いに召されているが、救われるためには、まず聖霊の働きによって罪の心が再生されなければならない。生まれつきのままの自然の人は全的堕落しているので、霊的なものを受け入れないので、まず聖霊が罪人の無意識下において心を霊的に生まれ変わらせて、霊的なことが理解できようにすることが必要である。そして、再生させられた罪人は、今度は、意識的に回心することが必要となる。回心には、2つの局面があり、罪から方向転嫁する悔い改めと救い主キリストに向かって方向転換することの両方が求められる。こうして、キリストが自分の罪を身代わりに背負って、十字架で父なる神に裁かれたことを信じたときに、その人が神から罪赦されて義認され、救われるのである。そこで、スミスは、この信仰義認論を扱う。信仰義認は、プロテスタント宗教改革の実質原理として、宗教改革を支えた聖書的な教理であり、宗教改革の旗とも言われる。心して学びたいと思う。


 第2点は、細かい点は、スミスの本文を読んでいただければと思うので、気がついたことだけを記す。聖書における義認の意味についてである。すると、スミスは、義認は、旧約聖書においても新約聖書においても、人を義とするという原因的な意味ではなく、あくまでも司法的、法的で、義と宣言するという意味であることを、スミスは繰り返し強調する。


すなわち、旧約聖書における「義と認める」(justify)という言葉は、幾つかの使用法があるが、最も頻繁で、最も重要な使用法は、法的なあるいは宣言的な使用法で、カトリックが主張するように、義とするという原因的な意味でないことを、スミスは明らかにする。代表的な御言葉を一つ挙げれば、箴言17:15で「・・・」とあるが、その意味は、悪い者を義と宣言することも、正しい者を悪いと宣言することも、ともに、主のいとわれることであるという意味で、義認が明らかに法的な意味で宣言されることを表している


 新約聖書においても「義とする」(justify)という言葉は、「証明する」また「義と宣言する」という2つの意味で使われるが、「義と宣言する」という場合は、司法的なあるいは法的な意味で使われ、人を義とするという原因的な意味ではないことを理解することの大切さをスミスは強調している。そして、神が義認するという救済論においては、不信心な者の義としての神の宣言であり、判決であり、数えることであることを述べる。義とする(justify)という言葉が、原因的な意味ではなく、司法的で法的で宣言的な意味において使われている個所は、ローマ4章の義認がそうであるが、ローマ4:24で明白である。「・・・」。すなわち、信じた者は原因的に義とされるのではなく、司法的に法的に義と認められて、宣言されることであることをわかる。


 第4点は、わたしたちの義認の根拠は、神の義であり、この義は、より特別に、キリストの従順と彼の犠牲的で贖罪的なみわざと同一視される。代表個所はローマ3:24で「・・・」である。キリストが消極的従順と積極的従順によって獲得して義が信仰という手段によって信じる者に転嫁されるので、わたしたちが義人に勘定され、数えられて義と宣言されるのである。それゆえ、信仰は義認の根拠ではないし、信仰は、義認の結果でもなく、先行する手段であり、義認の神的行為に不可欠な手段とされる。ローマ・カトリックの義認論の誤りについては、スミスはこの後、詳しく述べるのでいが、宗教改革時に発生したレモンストラント、すなわち、アルミニアン(アルミニス派)は、今日も福音主義の一つの立場として存在しているが、彼らは「福音的従順」を語る。すなわち、福音を新しい律法と見なし、福音への本心からの誠実な服従を義認の根拠と主張するが、これは誤りで、義認の根拠はキリストの義だけであり、また、そのキリストの転嫁された義だけである。


 また、義認と善き行いの関係は、義認は、善き行いの唯一の基礎である。善き行いが功績となって救いに導かれることはないが、信仰からなされ、愛の動機から出、神の栄光を目指す善き行いは、来世でも報いを受けられる本来的な善き行いがあることは、スミスは語り、信者がこの本来的な善き行いに励むように勧めている。来世でも報いを受けられる本来的な善き行いがあることは、マタイ10:41で教えられている。「・・・」。義認の聖化の関係は、義認は、罪責(とが)を除き、父なる神が罪人を義と宣言する一回的な法的行為であるが、聖化は聖霊によって罪人がキリストに似た者として性質が漸進的に聖くされていく行為であるが、この世では完成しない。すなわち、完全聖化はない。


 第5点は、ローマ・カトリックの義認論の誤りについてである。カトリックは、「義認」と呼ばずに、「義化」あるいは「成義」と呼ぶことからのわかるように、人が洗礼を受けると、キリストが獲得してくださった義が神によりその人の心に超自然的に注入され、その人の性質が実体的に聖く変化し、代わって、その人自身が義化され、その人は善を行えるようになり、その善行、すなわち、善き行いで救われると教える。しかし、これは聖書が教える神が信仰により転嫁されたキリストの義を根拠にして、その人を法的に義と宣言する正しい義認お教理からの逸脱である。カトリックが言うに罪人の性質が聖く変えられていくのは、義認でなく、聖霊のみわざとしての聖化である。義認と聖化は区別されなければならない、カトリックは混同している。義認については、拙著「ウェストミンスター信仰告白の解説」の「第11章 義認について」を参照のこと。バルトの人類全体の義認の誤りについてである。


第6点は、スミスは特に述べていないが、キリストの和解による人類全体の客観的義認の主張の誤りについてである。バルトは、義認を二つの意味で語る。ひとつは、イエス・キリストが、人間のために十字架で死んで、復活したことは、神がイエス・キリストを義と認めたとこと言う。そして、もうひとつは、イエス・キリストの復活において、全人類が神から和解され、義認されたのであると言う。バルトの義認は、和解論と密接不可分に結びついている。すなわち、イエス・キリストにおいて、すべての人間に対する審判の意味での死は終わって、すべての人間と神との和解が成立したことを意味する。そして、この和解は、客観的で、誰も取り消すことができないという意味である。すなわち、人が、これを信じようが、信じまいが、無関係のキャンセル不可能の客観的な出来事であり、神とすべての人間との和解なのである。キリストの死と復活によって、もうすでに客観的に、神とすべての人間は和解が成立して、和解が勝利しているので、状況がガラリと変化したことを語る。すなわち、人が認めようが、認めまいが、すべての人間に対する神の審判はもうすでに全部、キリストにおいて終了し、神はすべての人間を肯定(God‘s Yes)したと言う。人が認めようが、認めまいが、人間に対する神の審判はもうすでに全部、キリストにおいて終了し、すべての人は義認されているので、最早、罪深い人間に対する神の審判は、消し去られて、人間に対する神の審判はないのである。わたしたちすべての人間が神から捨てられないために、イエス・キリスト一人だけが十字架において一度だけ捨てられたのである。そこで、バルトは、「教会教義学Ⅳ/1」において、それゆえ、復活はキリストの義認であり、また、キリストの人格において、「そのお方の死について、この出来事がその決定的言葉を宣言したところの罪深い人類の全体の義認(the justification of the whole of sinful mankind)なのである」と述べているが、聖書には、キリストの和解に基づく人間全体の客観的な義認などという教えはない。聖書は、わたしたちが信仰によってイエス・キリストを自分の救い主と信仰したときに、そのとき初めて、父なる神から義認されることを明白に教えている。パウロは、ローマ4:5で「しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」、ガラテヤ2:16で「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです」と語り、義認は信仰による個人個人の義認であり、信仰による一人一人の義認であることを明らかに教えている。ここにもバルト神学の特色であるキリストにおける恩恵の勝利の普遍主義的傾と客観主義的傾向が現れている。バルトの人間全体の客観的な義認の教えは聖書の根拠がない。バルトの人類全体の義認については、拙著「カール・バルト神学における恩恵の勝利-その紹介と解説-」の「第5章 和解の勝利」を参照のこ


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