召命と再生 

     

序論


 


1「召す」(call)と訳される聖書の用語は、קרא:カーラーととκαλέω:kareo:カレオウ、κλησις:klesis:クレーシス、κλησς:kletos:クレートスである。旧約聖書のקרא:カーラーという用語は、召命が従われようとも従われなくとも、それに関係なく、しばしば神の命令に関して用いられる。そのような場合には、召命は外的召命と呼ばれるところのものに言及し、それは抵抗され得る。他方、新約聖書においては、その用語は、救拯論的な意味において内的召命か外的召命に関して、ほとんど統一的に用いられる。マタイ22:14においてだけ、外的召命への明白な言及がある。「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」。これが新約聖書における外的召命に関する用語の唯一の明らかな使用であるが、このことは、そのような召命の理念を排除するために除外されるべきではない。


 


Ⅱ.外的召命


 


A.  その定義


 


外的召命は、内的召命から完全には分離され得ない。「外的召命と内的召命は、本質的に一つである。とはいえ、それらは、注意深く区別されるべきである」(Berkhof,Systematic Theology,op.cit.p.456)。外的召命は、罪の赦しと永遠の命を得るために、信仰によってキリストを受け入れることを熱心に勧めることと共に罪人への救いの提示と提供(in the presentation and offering)にある。


 


1. 外的召命の諸要素


 


a.外的召命の最初で最も基本的な要素は、福音の事実と教理の提示である。福音は、「キリストは死んだ・・・そして、死者から再びよみがえった」というような歴史的な事実にある。それは、これらの事実についての聖書の解釈をも包含する。すなわち、彼は「わたしたちの罪のために」(he died ¨for our sins¨)死んだのである(コリント一15:3-4)。福音の提示は、歴史的な事実とこれらの事実の聖書的意味の両方についてのこの2重の提示である。


 


b.事実と教理の提示に加えて、福音の外的召命は、罪人がこの福音を受け入れることに招くのである。このことは、信頼、救い主キリストへの救いの信仰によってなされる(コリント二5:11、20、ヨハネ6:28、29、使徒言行禄19:4)。


 


c.外的召命の第3の要素は、福音の約束の提供である。すなわち、赦しと永遠の命である。これらの約束は、聖書において、悔い改めと信仰に基づいて条件づけられている(使徒言行禄2:38、ローマ10:9-10)。


2. 外的召命の特徴


 


a.外的召命は、すべての人に普遍的に語りかけられている。このことは、マタイ22:14によって示唆されている。「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」。ここに、わたしたちは、外的召命は選びよりも広いことを見る。福音が普遍的に提供されているという事実は、広い普遍的な用語において語るところのそれらの個所において見い出される。たとえば、ヨハネ3:16は言う。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。マタイ11:28もそうである。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。教会が受けた大委任(the great commission)は、全世界へ出て行って、すべての被造物に、すべての国民に宣べ伝えよである(マルコ16:15、マタイ28:19)。新約聖書の教会の実践は、まさにこれを行うことであった。


 


b.それは、「よき信仰による」召命(a bona fide calling)である。聖書の招きの言語は、神は人間を真摯に呼びかけ、招き、罪人が自分の罪から方向転換(to turn)し、また、救いのために主を呼び求めているものとして表している。


 


3. 外的召命の意義


 


a.神は、神はすべての人が福音を受け入れるようにと、御自身の主権をすべての人に主張している。人間は、その呼びかけを拒否することによって、自分自身の罪を増している。


 


b.外的召命は、人間を悔い改めと信仰へともたらす神的に定められた手段である。それは、選民を地から集める神の手段である(ローマ10:14)。


 


c.外的召命において、わたしたちは、神の聖さ、いつくしみ(goodness)、憐み(compassion)の啓示を見る。彼は、罪人たちに罪を思い留まらせ、もし、彼らが罪に留まり続けるならば、彼らに自滅(self-destruction)と死を警告する(エゼキエル18:32、33:11、マタイ11:20-24、23:37)。


 


e.神の聖さと対照的に、福音の召命を拒否する者たちの罪深さは、彼らが福音を拒否することにおいて明白である。彼らは、こうして、受けるにふさわしくない罪人たちにまで広げられた恵みと憐みと対照的に、彼らの深い腐敗を示している。


 


Ⅲ.内的召命あるいは有効召命


 


A.  内的召命の性質


わたしたちは、有効召命と外的召命は密接に関係していることを、すでに考察した。有効召命において選民の心において救いへ有効にされるところのものは、外的召命において聞かれる同じ言葉である。聖霊が、外的召命を彼において有効にすることによって、外的召命を選民の罪人に適用するのである。


 


B.  内的召命の性質


 


1.内的召命は、聖霊によって救拯的に適用される御言葉による召命である。コリント一1:23-24、ペトロ一2:9。


 


2.内的召命は、力強い召命であり、それは救いへと至らせる(使徒言行録13:48、コリント一1:23-24)。


 


3.内的召命は、神の側における悔い改めがない(without repentance on God’s part)。すなわち、内的召命は、変化や撤回の課題ではない(not subject to change or withdrawal)。神の永遠のご計画に基づき、それは不変であり、神の有効召命は悔い改めがない(without repentance )のである(テサロニケ一1:4-5)。


 


4.内的召命は、聖霊の道徳的な説得と力強いみわざ(the powerful operation)により働く。


 


5.外的召命は、人間の意識的な生活に(to the conscious life)語りかけられるので、内的召命は人間の意識的生活においてのみ(in the conscious life)働く。人間の理解に向けられる。人間は、罪の確信に導かれ、キリストについての知識に明るくされ、説得され、キリストを受け入れることを可能にする。可能にすることは、無意識下で起こる変化であり、それを、わたしたちは、再生と名づける。召命それ自身は、意識的なレベルでの働きとして、最善に理解される。


 


6.召命は特別な目的のためにあるということにおいて、内的召命は性質において救拯論的である。最初に、内的召命はキリストとのまじわりである(コリント一1:9)。第2に、内的召命は福音の祝福を受け継ぐ召命である(ペトロ一3:9)。第3に、内的召命は自由への召命である(ガラテヤ5:13)、第4に、内的召命は、平和への召命である(コリント一7:15)。第5に、内的召命は、聖さへの召命である(テサロニケ一4:7)。第6に、内的召命は、希望への召命である(エフェソ4:4)。第7に、内的召命は、永遠の命への召命である(テモテ一6:12)。第8に、内的召命は、神の国と神の栄光への召命である(テサロニケ一2:12)。


 


C.  召命の作者は神である


 


1.召命の作者は、内的召命も外的召命も両方とも神である(コリント一1:9、テモテ二1:8―9)。召命は、神の行為として、また、神だけの行為として、再生、義認、子とすること、栄光化と結びついている。召命は、キリストによって買い取られた贖いの適用の最初のステップである。救いの適用における神の主権が、このように強調されている。


 


2.父なる神は、聖書において、救いを計画された三位一体の人格として、また、「その計画の適用を主導する人格として表されている。このことは、―マ8:28-30において裏付けられている。そこでは、父への言及が明らかである。召したお方はわたしたちを御子のかたちに似た者とすることを予定したお方である(コリント一1:9、ガラテヤ1:15、エフェソ1:17-18、テモテ二1:9)。しかしながら、有効召命の効果的な行為者として表されているのは、三位一体の第3人格である。「イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない』」(ヨハネ3:5)。「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」(ヨハネ6:63)。有効召命は、神の霊のみわざと呼ばれる。わたしたちが、これらの2つの理念を結びつけるならば、父は召し、それから、神は聖霊を通してその召しを有効にするのであると言えよう。エフェソ1:17-18は信者たちの照明(the enlightening)について語るが、そこは、読者たちの目を明るくし、彼らが自分の召しを知るために、パウロが、父が知恵の霊を与えるように祈っている。類比によって、わたしたちは、父はわたしたちの有効召命を主導し、御霊は、キリストの知識においてわたしたちを明るくするお方であり、わたしたちが、福音において提供されているようにキリストを抱くことができるために、再生によって、わたしたちの意志を更新するお方なのである。


 


D.  有効召命と再生


 


ウェストミンスター信仰基準は、有効召命と再生をお互いに区別しているが、しかし、むしろ、再生を有効召命下に組み込んでいる。このことは、ローマ8:30において、「召し」(calling)という用語のパウロの使用法において防御されている。御霊のみわざの2つの局面についてのわたしたちのよりよい理解のためには、それらを区別した方がよいのである。再生は、再び、生むことにおける(in begetting)神の行為の始めなのである。再生は無意識下において起こる。再生は、人間のどのような姿勢にも依存していない。他方、召命は、人間生活の意識的レベルに対して語りかけられる。再生は、神の創造的な活動である。召命は道徳的な説得(moral suasion)の活動である。


 


Ⅳ.再生


 


A.使われている用語


 


 新約聖書において、再生あるいは新生を語る幾つかの用語がある。


 


παλιγγενεσια:paliggenesia:パリンゲネシア・・・再び生まれること(rebirth)、再生、マタイ1:28、テトス3:5


 


αναγεννήσας:anagenneas:アナゲンネーサス・・・新しく生む(beget)、ペトロ一1:3,23


 


γεννηθηναι άνωθεν:gennethemai anothen:ゲンネーセーナイ アノウセン・・・新たに生まれる(to be born anew,from above)、ヨハネ3:3、7


 


これらは新約聖書の他の表現と共に新しい誕生の理念を担う。


 


A.新約聖書の教え


 


1. イエスとニコデモ(ヨハネ3章)


 


 ヨハネの第3章において、わたしたちは、再生についての主題に献げられた会話を見い出す。わたしたちが、この会話を吟味するとき、わたしたちは、もし、人が神の国を見たいならば、それが再び生まれることの必要性を強調しているのを見る。このことは、イエスの他の教えに反しないが、人間の心についての彼の教えと御国の要求の間に他の仕方で存するであろうところのギャップを埋めるのである。他方、彼は言った。「悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない」(マタイ15:19-20)。換言すれば、人間の心は邪悪であり、しかし、もし、彼が御国に入るために、イエスは人間に彼の義が完全であることを求めた。誰が御国に入れるのは。もし、再び生まれることの教えがある場合のみである。もし、神が登場して、人間の心を変える場合のみ、人間は御国に入ることを望めるのである。


 わたしたちが、ニコデモとの会話を見るとき、わたしたちは、幾つかのことを見る。最初に、わたしたちは、要求されるところの変化の根源的な性格に気づく。自己訓練(not-self-discipline)、遺伝的な資質(no hereditary qualities)、生得的権利(no birthright)、多くの善きわざ(no amount of good works)も、神の国に入ることを獲得すことはできない。それは、人が行ったり、効果あるものにしたりするところのものでなく、人間がそれを受けるところのものは、御国の内における自分の場所についての決定(the determinative)なのである。誕生のような根源的なものの内にある変化と共に来ること以外には、神の国における命はないのである。


 


a.  ヨハネ3:3-6


 


 3節において、わたしたちは、άνωθεν:anothen:アノウセンという言葉を見い出す。それは、何を意味するのか。それは、場所的にも時間的にも「上から」(from above)、あるいは、「再び」(again)と両方に訳されてきた。見解は、この事柄について分かれている。両方とも、言語学的は可能であることが言われなければならない。ある者たちは、「上から」(from above)は、ヨハネの使用法、一般的なヨハネの使用法ゆえに最善であると主張する。確かに、άνωθεν:anothen:アノウセンの新約聖書における優勢な使用法は、「上から」(from above)である(マタイ27:51、ヨハネ3:31、19:11、23、1:17、3:14、17)。「再び」(again)の唯1回の明白な例は、ガラテヤ4:9であり、そこでは、πάλιν:pallin:パリンと共に使用されている。ルカ1:3において、それは「最初から」(from the beginning)を意味する。この使用法は、強調は神から始まる誕生の事実をプラスして、「上から」(from above)に有利な強い論拠を与える。


 ニコデモの言語は、他方、「再び」(again)の理念が正しい訳であることを示唆する。彼は、δεύτερον:deuteron:デユウテロンという言葉を使用しているが、それは、彼がそれを「上から」(from above)の代わりに、「再び」(again)の理念への言及と理解したことを示す。他方、イエスは、生まれ変わりを聖霊からであることを語る。こうして、それは、聖霊の働きによって有効にされるところの生まれ変わりなのである。


 


b.「生まれる」(born)と「生まれる」(begotten:γεννηθη:ゲンネセー)という言葉についての疑問


 


 この言葉についての厳密な意味は確かではない。新約聖書の使用法によれば、それは「生むこと」(begetting)にも「生むこと」(bearing)のどちらの意味においても理解され得る。「生むこと」(begetting)の使用法は、子孫を生む(begets seed)父の側に言及する。他方、「生むこと」(bearing)は、子供を生む母の側に言及する。実際に、御霊によって「生まれること」(to be begotten)、あるいは、御霊によって「生まれること」(born of the Spirit)は、本質的に同じ理念をわたしたちに伝え、そして、こうして、わたしたちはその言葉の厳密な意味を確定できないが、それは基本的な概念を変えないのである。すなわち、神の御霊がこの新しい誕生の源泉なので


ある。


 「わたしたちが、御霊によって「生まれること」(to be begotten)を考えようが、あるいは、御霊によって「生まれること」(born of the Spirit)を考えようが、一つのことは確かである―神の国に入るためには、わたしたちはまったく聖霊の行為に依存しているのであり、それは、わたしたちが世に生まれるところのわたしたちの両親の側の行為に例えられる聖霊の行使なのであるということを、わたしたちは主によって教えられている。わたしたちがわたしたちの自然な誕生との関連においてわたしたちの両親に依存しているように、わたしたちは聖霊に依存している。わたしたちは、わたしたちが生まれることを決めたから、わたしたちの父によって生まれたのではない(not begotten)。わたしたちは単純に生まれ(begotten)、生まれた(born)のである。わたしたちが望んだから、また、決めたから、わたしたちが神の国についての霊的認識を持ったり、あるいは、神の国に入るのではない。もし、この特権がわたしたちのものならば、それは、聖霊がそれを望み、また、ここですべてが聖霊の決定と行為に依存しているのである。彼は、御自身がよしとするとき、また、よしとするところで生み(begets)、生む(bears)のである。


 


c.「水によって」(of water)の意味(εχ ùδατος:ex hudatos:エックス ヒュダトス)


 


 ヨハネ3:5において、イエスは、「水と霊によって」生まれること(the rebirth of water and spirit)の意味を導入する。この個所における「水」(water)の意味は重要である。ある者たちは、その個所において、水の洗礼への直接的な言及を見い出す(ウィリアム・ヘンドリクセン:William Hendriksen)は、水へのこの言及はヨハネの洗礼への言及と見る。レオン・モリス:Leon Morris)も、主張される解釈の3つのグループがあることを示している。1.ヨハネの洗礼、2.男性の精液、これをモリスは有利と見る、3.キリスト教の洗礼)。洗礼による再生(baptismal regeneration)を主張する者たちは、この個所を自分たちの証拠と指摘する。わたしたが、このテキストを理解しようとするとき、ニコデモが生きていた文脈を思い起すことが重要である。彼は、ユダヤの宗教のファリサイ派であった。そのような者として、彼は、水への言及を、旧約聖書の儀式とユダヤ教の儀式における水の使用の宗教的な意義を理解したであろう。水のこの宗教的な使用は常に清め(purification)に言及した。イエスの直接的な言及は、疑いもなくエゼキエル36:25-26である。


「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える」。


 この個所は、罪人たちを天国にふさわしくするために要求される全的変化(the total change)について語っている。罪からの清め、そして、新しい命の植えつけ(the implanting of new life)があらねばならない。それは真に分かたれた出来事であるが、しかし、むしろ、天の国のために人間をふさわしくする異なった局面なのである。石の心が取り除かれること、肉の心が与えられることがあらねばらない。洗礼における水の使用は、きよめ、生まれ変わりにおいて要求される現実のきよめを象徴し、それは聖霊によって効果あるものとされる。テトス3:5は、「神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです」について語る。


 きよめの必要性への言及は、わたしたちの生まれ変わりの必要性である。ニコデモの場合には特に適切であった。


 「イエスの指が直接的に罪の特徴と彼が扱う人々のニードに触れることは、イエスの教えの特徴であった。ファリサイ派の罪の特徴は、自己満足と自己義認であった。彼らが必要としたのは、自分たちの腐敗ときよめの必要を確信することであった。「水によって生まれる」(born of water)という表現が、最も効果的に意味を担うのは、この教訓においてであったであろう。・・・再生は、将来に対すると同様に過去をも否定するのである。再生は、義において再創造することと同じく罪からも清められなければならないのである」(Ibid.p.215-218)。


 この考察から、わたしたちは、ここでの水への言及は、必ずしも、キリスト教の洗礼ではないと結論しなければならない。もし、彼がその洗礼に言及することを望めば、彼は、疑いもなく、βαπιζω:baptizo:バプテゾウという言葉を使ったであろう。洗礼は、聖霊の清めをほのめかすが、その意義の趣旨はキリストとの結合(union with Christ)の概念において見い出される。


 


2. ヨハネ文書における他の個所


 


 考察されねばならないところのヨハネ文書における生まれ変わり(the rebirth)への幾つかの言及がある。最初に、ヨハネ1:12-13で、「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」。この個所は、一連の否定的なものを提示している。その一連において変化の程度があるか、あるいは、それらの間に大きな違いがあるどうかは、重要ではない。主な思想は、生まれることは、何の人間の性質の働きを通して起こるものではなかったことである。それは、上からであり、人間からではない。神の子らは、神の力の働きによってのみ生み出されるのである。


 ヨハネの個所の第2のグループは、ヨハネ一に見いだされる。それらは、ヨハネ一2:29で、「あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです」。ヨハネ一3:9で。「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません」。ヨハネ一4:7で、「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです」。ヨハネ一5:1で、「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します」。ヨハネ一5:4で、「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です」。ヨハネ一5:18で、「わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません」。


 3:9を除いて、これらのすべては、強調は、神的生まれ(the divine begetting)に不変に伴っているものとして(the invariable concomitance)と述べられているいろいろな資質である。義を行う(2:29)、神を愛し、知る(4:7)、イエスはキリストであることを信じる、そして、愛する(5:1)、世に勝つ(5:4)、罪を犯さない、神がその人を守る、悪い者が手を触れない(5:18)のである。ヨハネ一3:9において、変わらず伴うこと(invariable concomitance)以上のものを表している。それは、原因結果として、神の種が生まれ変わった人に住み、そして、こうして、彼は罪を犯すことができない。ヨハネ一3:9とヨハネ一5:18の比較は、5:18に伴うこと(the concomitance)は、3:9において言及されている原因結果の関係に基づかねばならない。他の個所のさらなる研究は、それらも変わらず伴うこと(the invariable concomitance)の背後において、単純に原因結果の関係を示している。ウォフィールドは、これらの個所の教えをまとめている。


 「新しい誕生は、わたしたちの前に、この議論におけるその始まりにおいてもたらされている。また、『新しくされること』(renewal)の全過程の根において、それは新しくされた人は神の子の偉大な名を担うことによって、霊魂への聖霊なる神の直接的な行為があることを、わたしたちが認識するようにされているのである」(Biblical and Theological Studies:Philadelphia: Presbyterian and Reformed Publishing Company Co.1952 p.368)。


 マーレーは言う。「わたしたちは、徳の全過程のカタログ(a whole catalogue of virtues)を、それゆえ持つのである―イエスはキリストである、世に勝っている、罪からの節制、セルフ・コントロール、罪を犯せないこと(incapacity)、悪い者の手の触れからの自由、義を行うこと、神と隣人を愛することであることを信じるのである。そして、それらは、すべて再生の実なのである。・・・イエスがキリストであるという信仰でさえも再生の結果であることは、特に注目されるべきである。・・・再生は、『わたしたちにおける』(in us)すべての救いの恵みの始まりなのであり、また、すべての恵みは、わたしたちの側の行動に再生の泉から出てくるのである。わたしたちは、信仰あるいは悔い改めあるいは回心によって生まれるのではない。わたしたちは、再生されているから、悔い改め、信じるのである。・・・信仰においてキリストを抱くことは、再生の最初の証拠であり、また、こすいて、わたしたちは、わたしたちが再生していることを知るのである(Redemption,Accomplished and Applied:op.cit.pp.126-127)。


 


A.  回心から区別されるものとしての再生


 


 回心という言葉は、しばしば広い意味で使われる。性質の変化また変化したものとしての性質の行使(exercice)の両方を包含する。しかしながら、再生と区別されるとき、回心は、再生において植えつけられた新しい傾向の最初の行使を意味する。それは、罪から神への人間の方向転換なのである。再生は、わたしたちの意識に語りかけられるところの神の行為である。回心は、再生の結果として人間の行為である。再生は、恩恵的な性質の植えつけであり、回心はその原則の行使なのである。


 


B.  結論


 


 再生は、罪人が神の国を見るためにさえも、絶対的に必要と見られてきた。再生は、根源的な変化を包含する。再生は、神がもたらす変化である。再生は、上から、神から生まれることであり、新しい被造物である。再生は、全能の力の神的干渉(a Divine interposition of Almighty power)の用語以上の何かのより低い用語においては説明され得ないのである。


解説


 


「第30章:召命と再生」の紹介が終わったので、4点の解説をする。まず第1点は、この章の流れである。スミスは、キリストのみわざの扱いが終わったので、今度は、そのキリストのみわざが聖霊の働きによって罪人に適用される過程としての救拯論を扱うが、その過程にはいろいろな局面、段階、ステップがある。そこで、聖霊の適用のみわざの最初として、外的召命・内的召命と再生を本章において扱う。


それぞれの詳しい説明は、スミスの本文を読んでいただければと思うので、気づいたことにのみを記す。外的召命とは、福音の一般的提供によって、すべての人が何の差罰なくキリストによる救いに、神により真摯に真剣に普遍的に召されていることを表す。外的召命は、すべての人に普遍的に語りかけられている。代表的聖句は、「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」(マタイ22:14)。この言葉により、外的召命は選びよりも広いことがわかる。また、最もよく知られた聖句の一つである「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)もそうである。この御言葉から、福音宣教、福音の一般的提供は、神の愛からなされることがわかる。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28-29)もそうである。キリストは直接、御自身へと人々を誰でも差別なく暖かく招いている。マタイの最後の言葉の「・・・」は、教会が受けた大委任と言われているが、これらは皆、外的召命を表す。すべての人への、すべての国民へのキリストによる救いの良い知らせである福音の宣教、伝道は神の厳粛な主権的な命令であり、新約聖書の教会は、歴史の終わりまで、これを熱心に怠りなく、聖霊の力により時が良くても悪くても忍耐強く行い続けていくのである。


第2点は、聖霊の働きにより、外的召命は内的召命あるいは外的召命となることについてである。外的召命はキリストによる救いの良い知らせある福音を聞くことであるが、その聞いた福音は、それで終わらず、聖霊の働きによって彼の心、意識に語りかけられ、聞いた福音が効果あるもの、有効なものとされ、彼は福音の内容を理解し、自分の罪を確信し、キリストについての知識に明るくされ、キリストを自分の救い主と信じることを可能にさせる。この霊的なことは、生まれつきの全的堕落の罪人には不可能なことで、聖霊が人間の無意識下で行ってくださる主権的恵みの行為である。これで、彼は、内的に神に召された者とされる。これが内的召命である、あるいは、再生とも言われる。


第3点は、有効召命(内的召命)と再生の関係と違いについてである。ウェストミンスター信仰基準は、聖霊と御言葉による有効召命を語り(第10章1節)、その有効召命の中で聖霊の再生を語るが(第10章3節)、しかし、両者を区別している。この仕方は、ローマ8:30で「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです」の「召し」に、聖霊のみわざの2つの曲面を含むパウロの仕方と同じとスミスは言うが、しかし、スミスは、両者は深く関係しているが、区別した方が良い理解と語る。では、両者の違いは何か。すると、再生は、再び生むことにおける(in begetting)神の行為の始めなので、人間の無意識下で起こる聖霊のみわざであるのに対して、有効召命(内的召命)は、あくまでも、人間の意識的レベルに対して語りかけられる性質のものである。また、再生は、神の創造的な活動であるのにたいして、有効召命(内的召命)は道徳的な説得の活動なのである。


第4点は、人間の無意識下における聖霊の働きである再生をもっとよく表すといえる個所の釈義についてである。スミスは、ヨハネ3章のキリストとニコデモとの会話を挙げる。「人は、新たに生まれねば、神の国を見ることはできない」とあるが、その「新たに」は、「新たに」とも「上から」とも訳せるギリシャ語が使われていて、議論されてきたことを、スミスは述べるが、結論として、新共同訳聖書が訳しているように「新たに」と訳すべきことを主張している。また「生まれることができましょうか」とあるが、その「生まれる」は、英語では、「生むこと」(begetting)にも「生むこと」(bearing)のどちらの意味においても理解され得る。そして、「生むこと」(begetting)の方は、子孫を生む(begets seed)父の側に言及し、他方、「生むこと」(bearing)は、子供を生む母の側に言及する。しかし、スミスは、どちらに訳しても、本質は同じで、神の御霊がこの新しい霊的誕生、再生の源泉であることを教えていると結論する。また「水によってうまれなければ」は、洗礼における水の使用が、罪からのきよめを象徴し、それは聖霊によって効果あるものとされることを教えていると、スミスは解説する。


第5点は、ジョン・マーレーについてのわたしの思い出である。わたしが、神学生になって、最初に英語で神学書を読んだのが、ママーレーの著作であった。2冊読んだ。「The Imputation of Adam’s Sin(アダムの罪の転嫁)とChristian Baptism(キリスト教洗礼)であった。前者からは、創造時のアダムは、罪を犯さない可能性(posse peccare:able not to sin)がある人間として創造された(実際には犯した)が、わたしたちクリスチャンは、世の終わりに救いが完成するときには、罪を犯すことができない状態(non pesse peccare:not able to sin)にされるということを教えられ、喜びがあふれた。また、後者からは、キリスト教の洗礼の本質は「キリストとの結合」(union with Christ)であることを教えられた。今でも、洗礼と言うと、キリストとの結合とすぐに思い浮かぶ。また、現職牧師とのとき、署名を忘れてしまったが、マーレーの組織神学の方法論の論文を読んだ。その内容は、組織神学は、聖書の厳密で健全な釈義に基づくべきであるというもので、その方法を、この著作の著者のモートン.H.スミスも受け継いでいる。その点、オランダのバーフィンクやベルクーワのように、釈義とともに、古代、中世、近代、現代の神学者や哲学者たちとの対話がほとんどないので、物足りなく感じるかもしれない。でも、マーレーは、ウェストミンス―信仰基準については相当詳しいし、また、釈義が得意なので、「ローマの信徒への手紙の註解」も書いている。わたしは、現職のとき、ローマの信徒への手紙の連続講解説教をしたとき、マーレーの1The Epistle to the Romans(2vols.)をよく読んで説教した。そのときは、まだ日本語訳は出ていなかった。とてもよい注解書だと思う。多くを教えられた。いろいろなタイプの神学者がいてよいのだと思う。


 http://minoru.la.coocan.jp/morton30.html