モーセとヨシュア
モーセとヨシュアにみるイエスの型

 モーセとヨシュアという人物における予型について見てみましょう。
 二人とも、イスラエル民族の偉大な指導者であった人々です。彼らも、イエス・キリストの予型としてきわめて重要です。


モーセは解放者イエスの予型である

 紀元前一四四〇年頃、イスラエル民族は、まだエジプトの地で奴隷でした。
 そのとき彼らを、神の力によってエジプトの圧政から救い出したのが、イスラエルの偉大な預言者モーセです。しかしモーセは、単に"神の言葉を預かって"人々に伝える預言者だったのではなく、人々を救い出す"解放者"としての側面を持った大預言者でした。
 モーセは、晩年になって、イスラエルの民にこう告げました。
 「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者を、あなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない」(申命一八・一五)
 この"後に現れるモーセのような預言者"とは、一体誰のことでしょうか。
 それは、モーセのあとを継いで指導者になったヨシュアのことではありませんでした。申命記の最後に、
 「モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった」(申命三四・一〇)
 と記されているからです。
 民は、モーセの言った大預言者を待ち望みました。バプテスマのヨハネ(洗礼者ヨハネ)の時代になって(紀元頃)、あるイスラエル人たちは、ヨハネこそモーセの言っていた預言者かと思い、彼に、
 「あなたは、あの預言者ですか」
 と質問しました。その答えは、
 「違います」(ヨハ一・二一)
 でした。
 しかしその後、イエスが出現されたとき、イエスの目覚ましいわざを目撃した人々は、
 「本当に、この人こそ世に来たるべき預言者である」(ヨハ六・一四)
 と口々に言いました。イエスご自身、ご自分のことを、一人の「預言者」だと言われました。たとえば郷里でご自分が歓迎されなかったとき、
 「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、家族の間だけです」(マタ一三・五七)
 と言われ、ご自分を「預言者」と呼んでおられます。
 「わたしがあなたがたに言う言葉は、わたしが自分から話しているのではありません。わたしの内におられる父が、ご自分のわざをしておられるのです」(ヨハ一四・一〇)
 とイエスは言われましたが、イエスは、神の御旨を完全に伝える預言者、いや預言者以上の預言者でした。このかたが、私たちに罪と死からの解放をもたらされるのです。
 モーセがイスラエルの民をエジプトの圧政から救出したように、イエスは、私たちを罪と死から救出されます。モーセが言った来たるべき大預言者とは、まさにイエス・キリストのことなのです。イエスは言われました。
 「モーセは、わたしについて書いたのである(ヨハ五・四六)
 つまりモーセは、解放者としてのイエス・キリストの、一つの予型なのです。
 たとえば、モーセは「杖」をもって、イスラエル民族を出エジプトさせました。一方イエスは、「鉄の杖」(黙示一二・五)をもって、クリスチャンたち(いわば第二のイスラエル) を罪と死の支配下から救出される、と聖書は述べています。
 「鉄の杖」という黙示録の表現は、再来のキリストが"鉄のように堅固な支配権"をもって、私たちを罪の世から救ってくださる、という意味です。
 またモーセは、イスラエルの民を、荒野の中で四〇年にわたって導きました。イエスも、私たちをこの荒野のような人生の中で、導いてくださいます。
 かつてモーセは、民が飢えたとき、神に祈って「マナ」という食物を与えました。同様にイエスは、群衆に食べ物がなくなったとき、数個のパンと魚を増やす奇跡をなし、群衆を満腹させられました。この奇跡は群衆に、イエスこそ"第二のモーセ"だと認めさせたものです。
 かつてモーセは、民が「水が欲しい」と叫んだとき、岩から水をふき出させる奇跡をなしました。同様にイエスは、心のかわいた私たちに、ご自分の生命の内から「生ける水」(ヨハ七・三八)をわき出させ、私たちの魂を潤してくださるのです。


ヨシュアのカナン征服について

 モーセは、民が「カナンの地」に入る少し前に死にました。「カナンの地」とは、今日のパレスチナです。
 モーセの亡きあと、後継者として立てられたのが、ヨシュアです。ヨシュアはイスラエル民族の指導者となって、彼らをカナンの地に導き入れました。
 ヨシュアは再来の主イエスの一予型なのですが、彼について述べる前に、ここで多少、イスラエル民族のカナン攻略に関して述べておきましょう。
 イスラエルの民は、エジプト脱出後四〇年目に、ヨシュアに率いられてカナンに入り、その地の民族を滅ぼし、町々を火で焼いて征服しました。その征服のしかたは、容赦ないものでした。
 イスラエル民族のカナン征服の出来事は、しばしば残酷な侵略戦争のように思われることがあります。ですからその真相を明らかにしておくことは、有益でしょう。
 かつて神は、イスラエル民族の父祖アブラハムに、イスラエル民族は四百年の間エジプトで奴隷となるであろう、と告げられました。そしてその後、彼らは再びカナンの地に帰って来ると。
 その際、「四百年」後に帰って来るということの理由として、神はこう言われました。
 「アモリ人(カナンの代表的民族)の悪が、まだ満ちないからである」(創世一五・一六)
 つまり神の予知によれば、イスラエルの民がエジプトの奴隷となってから四百年ほどたった頃に、カナンの地の悪は最高潮に達しているだろう、ということだったのです。
 カナンの民族は、ヨシュアによって征服されようとしていた当時、ひどい悪の中に生活していました。
 彼らの悪の中で特にきわだったものは、性的な罪であったようです。乱交、近親相姦、同性愛、獣姦等が、ひんぱんに行なわれていました(レビ一八章)
 また易者、魔法使い、呪術者、口寄せ、かんなぎ、死人に問うことをする者等が多くいました。しかも自分の息子、娘を火で焼いて偶像にささげるようなことさえ、広く行なわれていたのです(申命一二・三一)
 彼らにはまた、「定礎犠牲(ていそぎせい)」(人柱)と呼ばれる恐るべき習慣がありました。これは家を建てるとき、残りの家族に幸運をもたらすために、幼児を犠牲にし、身体を壁の中に塗り込めた、というものです。
 その跡は、発掘によって多数発見されています。当時カナンの地は、国家的な規模で、あのソドムとゴモラ(悪のゆえに神に滅ぼされた町)のようになっていたのです。
 それゆえにモーセは、神のご意志を次のように伝えました。
 「(カナンの民族は) これらのもろもろの事によって汚れ、その地もまた汚れている。ゆえにわたしは、その悪のためにこれを罰し、その地もまた、その住民を吐き出すのである」(レビ一一・二四~二五)
 しかし同時に、モーセは次のように民をいましめました。
 「あなたの神、主があなたの前から彼らを追い払われた後に、あなたは心の中で『私が正しいから、主は私をこの地に導き入れて、これを得させられた』と言ってはならない。この国々の民が悪いから、主はこれをあなたの前から追い払われるのである」(申命九・四)
 このように、カナンの裁きのためにイスラエル民族を用いたのは、決してイスラエル民族が正しいからではありませんでした。神は、カナンの民が悪いから、イスラエルを用いて彼らを裁かれたのです。
 ですから後に、イスラエルが堕落したときには、神はイスラエルを、バビロン帝国(新バビロニア帝国) を用いて裁かれたのです(バビロン捕囚――紀元前六世紀)
 カナンの地の宗教や風習は、他のどの地にもまして、下劣でいやしいものでした。カナンの地の諸都市を発掘した考古学者らは、神がなぜもっと早く、彼らを滅ぼさなかったのかと驚いています。
 カナンは悪に満ちていました。ヨシュアに率いられたイスラエルが、神の命令によってカナンの地を滅ぼしたのは、「審判」だったのです。


ヨシュアは再来の主イエスの一予型である

 さて、じつは「ヨシュア」という名は、「イエス」のヘブル名であり、「イエス」は、「ヨシュア」のギリシャ名です。
 ちょうど「金(きん)」が「金(キム)」の日本名であり、「金(キム)」が「金(きん)」の韓国名であるのに似ています。「イエス」と「ヨシュア」が同じ名前であることは、面白いことです。
 実際、ヨシュアとその民がなしたように、イエスとイエスに率いられた聖徒たちは、やがて終わりの時に、悪の世を裁くでしょう。
 「それとも、聖徒は世をさばくものであることを、あなたがたは知らないのか」(一コリ六・二)
 と聖書は述べています。
 新約聖書・ヨハネの黙示録には、再来の主イエスが「天にある軍勢」(クリスチャンたち) を率いて、地上の悪の軍勢と、ハルマゲドンと呼ばれる地で戦いを交える光景が記されています。これは地上で最後の聖戦です。
 この戦いの時までは、地上のどんな戦闘行為も、「聖戦」の名で呼ぶことはできません。イスラエルのカナン征服は、特別な状況のもとで神が直接介入してなされたことで、これを例にあげて現代の戦争を「聖戦」と呼び、正当化することはできません。
 終末の近づいたこの時代も、神のご命令は、
 「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい」(ロマ一二・二〇)
 であり、
 「自分で復讐をしないで、むしろ神の怒りにまかせなさい」(ロマ一二・一九)
 だからです。
 ヨシュアは、再来の主イエスの予型です。
 ヨシュアは、イスラエル民族を率い、カナンの地を征服し、イスラエル民族を「乳と蜜の流れる」約束の地に導き入れました。同様にイエスは、再来の時、"第二のイスラエル"ともいえるクリスチャンらを率い、悪の勢力を征服し、裁かれるでしょう。
 そしてクリスチャンたちを、乳と蜜の流れる祝福の「約束の御国(みくに)」へと導かれます。ヨシュアは、約束の御国への導き手イエスの予型となったのです。
 イスラエルの民は、約束の地に入るまでの四〇年間、荒野での流浪(るろう)生活を経験しました。彼らは荒野をさまよい、あちこちでキャンプ生活をしました。新約聖書は、彼らのキャンプを、
 「荒野の集会 (原語エクレシア) (使徒七・三八)
 と呼んでいます。「エクレシア」は、「教会」と同じ語です。イスラエルの民が経験した荒野生活は、のちのキリスト教会の"型"となったのです。
 イスラエルの民が荒野で試練を受けたように、第二イスラエルである教会も、荒野のような世の中で、様々な試練や迫害を受けなければならないでしょう。しかしそうして鍛えられて、やがて約束の御国へと導かれるのです。
 ヨシュアがカナンを征服したとき、カナンの地の悪は満ち、最高潮に達していました。同様に、キリストが再来して地を裁かれる終末のときには、地の悪は満ち、最高潮に達しているでしょう。
 人々の道徳感覚はおとろえ、麻痺し、殺人、姦淫、盗み、偽証等が、様々なかたちで行なわれているでしょう。いかに人間が科学や産業を進歩させても、幸福や社会の平和につながらず、ただ「神なき文明」が真の平和と幸福の社会を築き得ないことを、証明するだけでしょう。
 そのように悪が最高潮に達したときに、キリストは再来し、悪を一掃され、神を敬う人々に祝福の御国を継がせてくださるのです。


 

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