パウロの「使徒性」について


●ここではⅡコリント書の1章1~11節を取り上げます。1~2節の挨拶ではパウロが「使徒」として召されたことが重要です。それについては、「ヘブル人の中のヘブル人・パウロ」の中のパウロの「使徒性」をご覧ください。

【新改訳2017】Ⅱコリント書1章1~2節
1 神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロと、兄弟テモテから、コリントにある神の教会、ならびにアカイア全土にいるすべての聖徒たちへ。
2 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。


パウロの「使徒性」について

●パウロにとって、自分が「使徒」として召されたことはきわめて重要なことでした。なぜなら、パウロの使徒性が受け入れられなければ、パウロに啓示された奥義も否定されることになり、教会を建て上げることなどできないからです。特に、コリントの教会ではパウロの使徒性を疑う者が多かったために、パウロは苦慮したようです。またパウロはエルサレムの使徒たちとは違って、イェシュアと共に過ごした経験がないだけでなく、使徒たちによる按手もなく、また推薦状も持っておりませんでした。勝手に自分を使徒だと自称しているだけであり、パウロの教えに従う必要はないと思われていたのです。しかしパウロ自身は、使徒であることの証印とは、キリストのためにどれほど苦悩したかということにかかっていると主張したのです。

●パウロの召命の一連の出来事の中で、主がダマスコに住む弟子の一人アナニヤに語った言葉があります。「彼(サウロ=パウロ)がわたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示します。」(使徒9:16)とあります。この苦しみこそ使徒職が与えられたことの証印だと彼は自覚していたのです。使徒とは、神のご計画のために苦しみを担うという責任を負わされた者で、人に権威を振りかざして支配しようということではありません。Ⅱコリント11章23~27節にはパウロの苦難のカタログが記されています。さらに、苦難の重さだけでなく、直接的啓示による神の奥義の豊かさも彼を使徒として確信させるものでした。

●パウロは「私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。」(【新改訳2017】Ⅰコリント15:9~10)としながらも、「月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました」と述べ、自分が「使徒」とされたことに反対する者に対しては一歩たりとも譲歩しませんでした。

●「使徒」とは、キリストによって「遣わされた者」「派遣された者」(ギリシア語は「アポストロス」ἀπόστολος)、ヘブル語は「シェリーアッハ」שְׁלִיחַ)という意味です。「遣わされた者」の原型が「御父から遣わされたイェシュア」です。ここからは3~11節の「慰めに満ちた神への賛美」を瞑想します。


慰めに満ちた神への賛美 - 牧師の書斎 (meigata-bokushinoshosai.info)