ローマ書の記録動機
ローマ教会の状況と著者であるパウロ自身の周辺環境を基に、パウロがなぜローマ書を記録したのかをまとめてみると、次のように要約することができる。
1. パウロはスペイン宣教のために西ヨーロッパ宣教の戦略的要衝地であるローマ教会に自分と自分の福音をすぐに紹介して彼らの助けと支援を得ようとしたが、このような宣教的目的が最も直接的なローマ書の記録動機だと言える。
2. ローマ教会にいる異邦キリスト人とユダヤキリスト人の間の葛藤と反目が深化して教会が一つにならなかった時、これを解決するためにローマ書を記録しているのだ。
3. パウロがローマにいるキリスト教徒たちを勧誘し、信頼を固めようとする目的で記録した(1:8-15; 15:15)。 すなわち、パウロは自分が設立した教会ではないが、自分の使徒的な使命に従ってローマ教徒たちに特別に彼らに必要なキリストの福音を伝えることで、彼らに神に従う聖なる民となるようにローマ書を記録した。
4. パウロが本書簡を一次的にはローマ教会に送るために書いているが、より幅広い歴史的状況から見て、まもなく訪れるエルサレム教会で神学的な論争を念頭に置いてローマ書を著述していることが分かる。 すなわち、エルサレム使徒会議に備えた辞典の準備として、もう一度キリスト教福音の真理を確認し、ユダヤ教会と異邦教会が一つの基礎の上に建てられたことを再確認するために、自分の神学的立場をローマ書で体系化させ要約整理しているのだ。
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ローマ書の背景
ローマ書は、パウロがこれまで宣教師役の中で悟った共通のテーマを神学的により熟考し、より論理的かつ体系的な教理に要約して整理した書信だという見解は、抽象的な考えだ。 言い換えれば、ローマ書は単なるキリスト教の教理の要約書ではないということだ。 様々な理由のために主な内容が神学的であり、他のパウロの書簡に比べて状況が少ないのは事実だが、ローマ書は依然としてその書簡が記録されなければならなかった実際的な状況が存在した状況書簡(occasional letter)である。 もし誰かがこのような事実を無視してローマ書を解釈しようとすると、彼は自分の前提と偏見の中で真にローマ書が言おうとするのを見ることができなくなるだろう。 まるでルターがそうだったようにだ。
ルターはローマ書の目的を次のように定義した: 「ローマにいるユダヤ人と異邦人たちは彼らが互いに戦う中で彼らの信仰と教会を正しく理解するためにパウロの教訓を聞くようになった…彼らは互いに反目する中で和解の道がなかった…。そこでパウロは牧師としての彼を信任した人々にどう行動するのか、その模範を見せながら教育した」(ルター選集第4巻、p.65)。 彼はローマ書の状況を正確に見たのかもしれない. しかし彼は自分が見ていたそれを無視してしまった. なぜなら、ルターが関心を持っていたのは、ローマ書の状況ではなく自分の状況であり、パウロがローマ書で何かを言おうとするのではなく、自分の目的のためにパウロを利用することだった。 当時「人が神様の前でどのように義理堅いことができるのか」という個人の問題で悩んだルターは、ローマ書に示されたこのような状況性を無視してしまい、過度に主観的に解釈することでパウロが本当に話そうとしたところを見られなくなったのである。
ルターはローマ書の中心テーマを「この新称義」すなわち「信心による義」と見ている。 これはルター以後、プロテスタント神学の中心となり、特に西欧神学の大きな基礎となった。 それが間違っているのではなく、私たちがここで問題として指摘したいのは、彼はローマ書を1世紀のパウロとローマ教会の状況で解釈せず、自分の時代の状況で主観的に解釈しているということだ。
今パウロがローマ書で強調しているのは、ユダヤ人とヘラインは神の前で同等だということだ」 「神はすべての人を民族的な差別なく接する」という、神の不偏不党性(Impartiality of God)を強調しているのである。 言い換えれば、ローマ書の核心的な主題の一つである「神の義」は、「人間が神の前でどのように義を持つのか」というルターの質問に対する答えとして与えられたものではなく、「ユダヤ人とヘラインが神の前でどれほど同等か」というパウロの質問に対する神の答えとして与えられたものである。 すなわち、ローマ書3:22の「神の意義は差別がない」というパウロの状況に対する認識から正確に解釈できるのである。
[Reference] : shmission, 「성경 신학 - 로마서 배경 연구」 http://shmission.com/xe/?mid=sh_kr_board6&category=84944&document_srl=109726.